2004年、U20(20歳以下)の若手が競い合った中野杯の入賞者のうち上位7人が、中国に修行の旅に出る。急成長の中国若手棋士たちを相手に連日対局漬けになって、国際試合の経験を積む企画である。趣旨に賛同した坂入達雄氏の支援で実現することになった。持ち時間は各1時間、1分まえから秒読み。
期 | 年 | 優勝者 | コメント | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8 | 2011 | 22勝38敗 |
【「週刊碁」(2011年12月26日号)】 第8回中野杯のベスト8+2人の計10人による中国遠征が11月に中国北京の中国棋院で行われ、中国の若手棋士と1人6局計60局が打たれ、日本勢の22勝38敗の成績だった。2009年は日本13勝47敗、2010年は日本13勝41敗だったから、最近では最も良い成績だった。 日本の出場選手は鈴木伸二三段(21)、寺山怜三段(20)、一力遼初段(14)、稲葉貴宇初段(20)、田尻悠人二段(20)、志田達哉四段(21)、余正麒二段(16)、常石隆志初段(20)のベスト8に推薦枠で孫初段(15)、藤沢里菜初段(13)を加えた10人。中国の出場選手は、陳耀Y九段、李葺Z段、朴文尭五段、周睿羊五段、柁嘉熹三段などすでに国際棋戦で活躍している棋士が名を連ねた。対戦結果は次の通り。日本のレベルアップが急務の結果であった。
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7 | 2010 | 日本13勝41敗 |
【「週刊碁」2011年1月31日号より】 第7回中野杯上位入賞者が2010年12月に中国に遠征し、中国若手棋士と対抗戦を行った。村川大介七段をはじめ9人が参加、北京の中国棋院で各6局、合計54局行われた。結果は13勝41敗。最高成績は志田達哉三段(20)の4勝2敗。昨年は10人が参加して13勝47敗、村川大介の3勝3敗が最高成績だった。その村川大介は今回は0勝6敗。持ち時間が長い日本棋戦慣れして力が衰えたのでなければよいが…。
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6 | 2010 | 日本13勝47敗 |
【「週刊碁」(2010年1月11日号)】 第6回中野杯中国遠征は10人の棋士が参加し一人6局計60局が打たれた。最終結果は日本の13勝47敗。勝ち越した棋士はおらず、村川大介の3勝3敗で最高成績。日本の若手棋士の実力は中国の若手棋士には遠く及ばない。 日本の出場選手は、村川大介五段、志田達哉三段、李沂修七段、安達利昌初段、鈴木伸二初段、内田修平三段、伊藤優詩初段、柳澤理志三段、伊田篤史初段、兆乾初段の10人。中国の出場選手は、陳耀Y九段、李葺Z段、朴文尭五段、周睿羊五段、柁嘉熹三段などすでに国際棋戦で活躍している棋士が名を連ねた。対戦結果は次の通り。日本のレベルアップが急務の結果であった。
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5 | 2009 | 8勝40敗 |
1月21日から23日の3日間、第5回中野杯U20選手権の上位入賞の8人が中国・北京の中国棋院を訪れ、中国若手棋士と対抗戦を行った。対局は午前1回、午後1回で3日間、計6局。持ち時間は各1時間、1分まえから秒読み。 日本選手は、李沂修四段(19歳、東京)、富士田明彦初段(16歳、東京)、田尻悠人初段(17歳、東京)、三根康弘初段(20歳、関西)、村川大介五段(17歳、関西)、寺山怜初段(17歳、東京)、西川貴敏院生(??歳、関西)、熊本秀生初段(16歳、中部)の8人。中国棋院からは陳耀Y九段、牛雨田六段、張維五段、単子騰二段、李軒豪初段、範蔚菁二段、王祥雲初段、王磐初段などが出場した。 結果は、21日は1勝15敗、22日は1勝15敗、23日は6勝10敗で、総合成績は日本の8勝40敗。勝ち越した棋士はおらず、李沂修の3勝3敗が最高の成績。中国では1月21日の第1回戦、第2回戦は記事になったが、日本の無様さにその後は記事にもならなかった。 第5回中野杯日中対抗戦は1月21日、中国棋院で行われ、2ラウンドで計16局打たれたが日本戦手は1勝しただけの痛ましい結果だった。中野杯は囲碁を心から愛した日本の作家・故中野孝行氏が個人出資して催した棋戦。中野孝行は、日本棋院の選定委員を担当し、かつて2度は日本文壇の囲碁名人タイトルを取ったことがある。7年前、彼は中韓の若手棋士の迅速な飛躍に危機感を感じ、日本の若手棋士の育成を目的に自費で20歳以下の若手を対象とした棋戦を創設した。日本国内の中野杯戦が終わった後、選抜選手が中国に来て、中国の若手棋士と対抗戦を行う。今回で5回目となる。しかし日本の新鋭棋士の実力はすでに中国の新鋭棋士とは対抗しにくく、団長の孔令文五段は「これは交流試合で、対抗試合ではありません。今のままでは対抗戦になりません」と語っている。 今回の日本戦手は、李沂修四段、村川大介五段、田尻悠人初段、熊本秀生初段、寺山怜初段、富士田朋彦初段、三根康弘初段、西川貴敏院生の8人。中国棋院からは陳耀Y九段、牛雨田六段、張維五段、単子騰二段、李軒豪初段、範蔚菁二段、王祥雲初段、王磐初段などが出場した。試合は全部で5ラウンド行われる。持ち時間は各1時間、1分まえから秒読み。 1月21日午前行われた第1回戦で、陳耀Y九段が李沂修四段に敗れた以外は中国棋士が勝った。陳耀Yは対局に負けたいへんがっかりして、ネットで狂ったように韓国棋士と対戦していた。第2回戦は午後に行われたが、昼休みに、孔令文は8名の日本棋士をナショナル・チームがいる訓練室に連れていった。訓練室では、兪斌九段、常昊九段、古力九段、王磊八段などが三星火災杯決勝戦を研究していたが、日本の新鋭たちは静かにはにかんで、はるかに中国の達人達を見ながら棋を並べて議論していた。午後の第2回戦では、牛雨田六段が李沂修四段に勝利。張維五段が村川大介五段に勝利。廖行文二段が田尻悠人初段に勝利。李軒豪初段が三根康弘初段に勝利。等々。今回は双方の実力に開きがあるのは明らかで、中国側の若手棋士は早々に対局を終え、まだ対局中のチームメイトの盤面を観覧していた。 1月21日、第5回中野杯日中U20対抗戦が中国棋院で行われ、午前に終わる第1ラウンドで中国選手は7勝1敗の成績だった。陳耀Yが李沂修に敗れた。日本チームの8人のメンバーは、村川大介五段、李沂修四段以外は初段が6人、院生が1人。中国チームのメンバーは代わる代わる出陣するが、陳耀Y、牛雨田、張維など男子と王祥雲、範蔚菁、王磐などの女子がいる。
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4 | 2007 | 5勝27敗 |
【2007年12月11日 中国・TOM棋聖道場】 日本の中野杯第1位から第8位の棋士が中国に遠征し、中国の若手棋士と対戦する第4回中野杯日中青年対抗戦が12月11、12日に全部で4ラウンドが北京で行われた。ルールは農心杯ルールを採用、持ち時間1時間、その後は1分の秒読み。 第1回戦は中国チームが日本チームに7勝1敗で快勝、午後1時半から行われた第2回戦は中国チームが日本チームに6勝2敗で勝った。日本は主将の井山裕太が一人だけ2勝している。第3回戦は中国チームが日本チームに7勝1敗で快勝、午後1時半から行われた第4回戦は中国チームが日本チームに7勝1敗で快勝した。日本は井山裕太と李沂修がそれぞれ1勝している。結果は日本チームの5勝27敗という惨憺たるものだった。
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3 | 2006 | 14勝34敗 |
第3回中野杯20選手権戦のベスト8が中国北京の中国棋院に遠征して、12月4、5、6日、中国若手陣と対戦した。遠征した棋士は、井山裕太七段、謝依旻三段、黄翊祖七段、安斎伸彰三段、李沂修二段、志田達哉初段、万波奈穂初段、内田修平初段の8人。結果は下表のとおり。通算14勝34敗の完敗だった。 中野杯ベスト8は過去2回、中国遠征をしているが、2004年は成績上位の7人が遠征して12勝30敗(勝率.286)、2005年は成績上位の7人が遠征して13勝29敗(勝率.310)だった。第3回の今年は成績上位の8人が遠征したが、成績は14勝34敗(勝率.292)で芳しくなかった。日本は井山裕太、謝依旻の2枚看板を立てて臨んだが、勝率改善はならなかった。
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2 | 2005 | 13勝29敗 |
【2005年11月11日 中国・体育週報(謝鋭)】 第2回中野杯日中青年対抗戦は11月8〜10日中国棋院で行われ、中野杯U20選手権戦で上位の成績を修めた7人の日本棋士が訪中して20人近くの中国棋士と3日間で42局対局したが、日本棋士は13勝29敗の成績に終った。主将の井山裕太七段の成績は1勝5敗だった。 中野杯U20選手権戦は日本の亡き作家・中野孝次が臨終前に賛助金を寄付して基金会を創立してできた棋戦で、10年間は行われることが約束されている。中野孝次氏は生前日本棋院の雑誌「碁ワールド」がこの棋戦を引き受けるよう頼んでいた。今回の日本の若手棋士は「碁ワールド」の佐藤編集長に率いられて中国に来た。 7人の日本棋士の中でも、井山裕太七段と黄翊祖七段と日本棋界の新しい“双子星座”と言われる。井山裕太は阿含桐山杯戦で張栩九段、王立誠九段、趙治勲九段、小林覚九段に勝って優勝し、また中野杯U20選手権戦でも優勝し、新人王戦では準優勝している。黄翊祖七段は中野杯U20選手権戦で井山裕太に敗れて第2位となったが、名人戦最終予選で趙善津九段、羽根直樹九段、河野臨七段に連勝してリーグ戦入りし、段位も四段から七段に上がった。 日本棋院は中国棋院に日本最強の井山裕太と黄翊祖に中国新鋭最強を当て、その他の日本棋士にはたくさん中国第2線級若手棋士を当てるよう要請していた。その結果、井山裕太の相手は陳耀Y五段、王昊洋三段、朴文尭四段、李侮l段、周睿羊三段、古霊益二段の6人、黄翊祖の相手は馬笑冰四段、古霊益二段、周睿羊三段、朱元豪二段、張維三段、李侮l段の6人となった。 井山裕太は第5戦で当たって周睿羊三段に勝った以外、他の5局はすべて敗けた。黄翊祖の成績は少し良く3勝3敗。馬笑冰四段、周睿羊三段、朱元豪二段に打ち勝って、古霊益二段、張維三段、李侮l段に負けた。その他の5人日本棋士は、李沂修初段が1勝5敗、内田修平初段が3勝3敗、安斎伸彰二段が2勝4敗、大橋拓文三段が1勝5敗、村川大介三段が2勝4敗だった。一方、中国チームは、陳耀Y、李普A古霊益、朴文尭が不敗を維持した。 来訪した7人の日本棋士は皆中野杯U20選手権戦で上位を占めた棋士で、日本の20歳以下の棋士の最高水準を代表する棋士。しかし3日間の試合で、彼らは実力を発揮できなかった。井山裕太と当った朴文尭四段は「彼の序盤は悪くないが、中盤以降は‘人がよい’ところがあり、譲歩することが多い」という。中盤に力が不足する。これは井山裕太に限らず日本の若手棋士の共通の欠点だ。 このような現状は憂慮される。趙治勲、小林光一の若手両雄を称えた時代、日本は世界囲碁界の絶対的な長男で、その時は聶衛平が日本を訪問して趙治勲と対戦したが手合違いだった。しかし20年たって日本の最強の若手棋士は中国の若手棋士に手合違いとなっている。日本囲碁の後継者はたよりない状況といえる。 |
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1 | 2004 | 12勝30敗 |
【「週刊碁」2004年10月11日号 「碁界ネットワーク」より】 U20(20歳以下)の若手が競い合った中野杯の入賞者のうち上位7人が、中国に修行の旅に出る。急成長の中国若手棋士たちを相手に連日対局漬けになって、国際試合の経験を積む企画である。趣旨に賛同した坂入達雄氏の支援で実現することになった。参加メンバーは、瀬戸大樹六段(20歳、1984年3月生れ)、大橋拓文三段(20歳、1984年5月生れ)、安藤和繁初段(21歳、1983年6月生れ)、三谷哲也三段(19歳、1985年8月生れ)、黄翊祖三段(17歳、1987年4月生れ)、林漢傑五段(20歳、1984年3月生れ)、星川拓海二段(21歳、1983年3月生れ)(中野杯の成績順)の7人。対する中国勢は、丁偉八段(25)、劉星七段(19)、王尭六段(21)、牛雨田六段(19)、彭筌五段(18)、李康五段(17)、陳耀Y四段(14)、王雷四段(17)、張学斌四段(19)、呉樹浩初段(12)ら精鋭が揃えられた。中国側はこの企画に全面協力で、最強の布陣で迎え撃つ構え。中国のメンバー表が届いた時、「良い選手を集めましたので、ご満足頂ける自信があります」とコメントがついていた。一行は10月5日夜、北京に着き、10月6日から3日間、1日2局ずつ6局打つ。みっちり勉強して10月9日朝には東京に戻る予定である。 |