喜多文子
きた ふみこ
Kita Humiko
1875年11月6日生れ

東京都出身
江戸期の女流棋士、方円社の林佐野の養女となって1891年初段(15歳)、1894年二段(18歳)、1896年(20歳)。能楽師・喜多六平太と結婚、13年間囲碁を離れ、1912年四段(36歳)、1937年六段。1950年5月10日没。
棋風:
揮毫:

ウィキペディア百科事典の情報 夢野久作をめぐる人々「喜多文子」
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中央区 区内散歩「囲碁七段の喜多文子」(中央区文化財調査指導員 野口孝一)】
囲碁ファンの方なら喜多文子という人物をご存知でしょうか。あるいは能楽の喜多流十四代喜多六平太夫人といえばおわかりでしょうか。現在、女性棋士の有段者は六十人をこす時代ですが、喜多文子がプロ棋士として活躍した時代は、女性棋士は珍しい存在でした。
喜多文子は明治八年(一八七五)に佐渡国(新潟県)出身の医師司馬凌海の二女として東京で生まれました。父の司馬凌海は幼少の時から神童の誉れ高く、十二歳の時に江戸に出て漢学と蘭学、医学を学びました。安政四年(一八五七)、医師松本良順(のちの陸軍軍医総監松本順)に従い長崎に赴く機会をえ、オランダ語と医学の研鑽をつみました。明治維新後、大学東校、宮内省、元老院書記官、愛知県医学校教授を歴任しました。同五年に日本最初の独和辞典『和洋独逸辞典』を出版するなど、日本におけるドイツ学の草分け的存在となっていました。その後、名古屋で開業しましたが、結核を発病し、明治十二年に亡くなりました。凌海は元気な時は収入も多かったのですが、派手に使ってしまう性格でしたので、凌海が病気になるとたちまちに窮地に陥りました。凌海の死後、文子は凌海の全盛時代に碁の相手として出入りしていた女性棋士林佐野のもとに養子に出されました。
江戸時代に家康の保護のもとに成立した囲碁の四家元は本因坊家、井上家、安井家、林家ですが、林佐野は林家の分家林藤三郎の養女で、十六歳で初段、十九歳で二段、さらに四段に進み、方円社の創設にも参画しました。方円社というのは、明治維新後、幕府の後ろ盾を失った棋士たちが研鑽のため結成した研究会が発展してできたもので、当時の棋士たちの修練の一大道場となりました(のちの日本棋院)。囲碁は豪商や実業家たちの庇護をうけ、新聞も囲碁欄を設けるようになると、しだいに盛んになりました。
林家は文子八歳の時、日本橋区槇町一番地(八重洲一丁目)に移りました。近所の小松原小学校に入れられました。しかし、文子はあまり馴染めなかったようです。やがて佐野は文子を碁のお稽古まわりに連れて出るようになりました。当時日本橋浜町にあった三井三郎助家や、安田善次郎家にも出入りしていました。佐野はやがて文子の才を見込んで本格的に囲碁を仕込みました。文子は佐野の厳しい指導によく耐えて十八歳で二段、明治二十九年二十一歳で三段に進み、その年、喜多六平太と結婚しました。
喜多六平太は、明治十七年十歳で能楽師喜多流十四代家元を襲名し、二十歳で六平太を襲名しました。能楽は徳川家康の保護のもと幕府式楽の家元として観世、宝生、金剛、金春の四座が認められていましたが、これとは別に喜多流が独立する事が認められたのでした。能楽も囲碁の世界と同様、幕府の後ろ盾を失い衰退の極にありました。六平太は辛苦の末、独創的なひらめきと絢爛にして変幻自在な芸風によって当代名人の世評が高かった人物でした。なお、能楽は中央区と関係深く、江戸時代には観世、宝生、金剛、金春、喜多の家元すべてが区内に屋敷を持っていました。喜多の屋敷は中橋上槇町(八重洲一丁目)にありました。文子が佐野といっしょに移り住んだ町が奇しくも同じであったわけです。
文子と六平太を結ぶ縁になったのは、筑前五十二万石の旧藩主黒田長知でした。長知は晩年、人を集めては遊楽、風流に明け暮れる日々を送っていました。その中に文子と六平太がいました。知り合って数年、長知の口添えで結婚の運びとなりました。文子は結婚当初は方円社やおつとめ廻りを続けていましたが、「喜多はうまい嫁をもらった、あれなら貧乏の喜多流も立つに違いない」という話を耳にして、それから十三年間ぷっつり碁をやめてしまいました。六平太を助けて家事と家元の裏方の仕事に没頭し、喜多流の再興に貢献しました。
十三年が経ち、六平太の勧めで棋界に復帰を決意し、頭山満の後援で本因坊秀哉(二十一世)との対局が実現し、霊南坂の頭山家での週一回の対局が五十二局に及びました。はじめは負け続きで、文子はこの時のことをのちに「女が家事に埋もれるというのはこんなに落ちてしまうことなのかと、一局一局がしんと骨身に堪えました。」と語っています。十七、八回続くと不思議に焦りもなくなり、謙虚な状態となり、するとどうしたことかぼつぼつ勝ち目が出てきて、本因坊からも「喜多さん、ようやく石が活きてきた」といわれるようになりました。三十六歳で四段、四十七歳で五段となり、方円社の後身である日本棋院でおもに女性たちの指導にあたりました。棋界の、とくに女性棋士の先達として見事な晩年を全うしました。死後文子の功績を称え七段位を送られました。昭和二十五年五月没、七十五歳の生涯でした。夫の六平太は同二十八年に文化勲章を受章。同三十年には重要無形文化財保持者に指定され、四十年一月没。享年九十六歳でした(島本久恵『明治の女たち』)。