鯛中新
たいなか しん
Tainaka Shin
1911年11月30日生れ

兵庫県出身
1927年久保松勝喜代に入門。1929年入段、1932年二段、1934年三段、1939年四段、1942年五段、1948年六段、1951年七段、1960年八段、1965年九段。文筆をよくする。1992年8月20日死去(享年80歳)。
棋風:
揮毫:
1958年早碁名人戦優勝
1957年早碁名人戦優勝
1955年関西棋院選手権戦優勝
【1992年8月29日 読売新聞(大阪夕刊)】
橋本宇太郎総帥(九段)を助けて関西棋院創立(昭和25年)に働いた鯛中新・九段が、8月20日朝、急性心不全のため80歳で亡くなった。妻のきくゑさんによると、その日は朝食をきちんととったが、ちょっと目を離して戻ったときには、意識が混濁していたという。昭和62年1月、脳血栓で倒れてからの鯛中さんは、碁を打てない無念さを、作句によってまぎらしていた。ベッドには死の直前に詠んだらしい俳句がメモに書かれていた。
 短か夜のねられぬままに碁書をよむ
若いころからスポーツ好きで、神戸市体育会役員、ラジオ体操指導員などを務め、アーチェリーもよくしたが、最も力を入れたのは早朝ミニ登山だった。神戸市灘区六甲町の自宅から同区一王山・十善寺まで、往復四キロのコースである。昭和30年に始め、31年間に1万503回登っているから、地球を一周以上した計算になる。それでも約900人の登山会員のうち回数は18位で、昭和61年の7月ごろ「早く10位に入りたいんだよ」と話していた。
理論的な棋風で安定した成績を残し、第7期本因坊リーグで挑戦権を逃したこともある。すきのない文章で知られたように、アマ相手の指導碁でも手抜きをせず、紙谷哲雄六段、家田隆二八段、柏原康人六段、本田満彦八段の四人の弟子を厳しく育てた。絶局は、昭和61年12月11日、第12期棋聖戦・九段戦の一回戦で、春山勇九段に白番半目勝ち。  半目を争う盤に冬のハエ 苦しまずに亡くなった鯛中さんだが、対局ができなくなったことと早朝ミニ登山の挫折は、同じくらい心残りだったように思われてならない。(赤)