長島梢恵
ながしま こずえ
Nagashima Kozue

1984年10月3日生れ

東京都出身
本田幸子七段門下。2002年4月入段(女流枠)。2009年8月22日会社員の長島光一郎さんと結婚。2009年9月2日付け「向井梢恵」→「長島梢恵」長島梢恵と改名。2011年12月23日二段(勝ち数=30勝昇段)。
三村芳織は実姉、向井千瑛は実妹。
棋風:
揮毫:

日本棋院の情報
【「囲碁講座」2004年10月号】
私は6歳くらいから近所の碁会所などに通っていましたが、特に決まった師匠はいませんでした。父が段取りして本田会に通うようになり、本田幸子先生の門下に入れて頂くことになりました。私は三姉妹の真中です。妹も棋士初段で、姉もプロを目指しています。三姉妹一緒に本田先生の弟子になったのです。
父は私たちの碁を横で見ていてルールを覚えました。母は最近碁を始めたところ。こんな私が碁と触れ合うきっかけは、小林覚先生のお父さんからルールを教わったことです。私の母と覚先生はいとこ同士なのです。(母方のお爺さんと覚先生のお父さんが兄弟)。まずは姉が碁を打ち始め、それを見て3歳くらいの私は「碁をやりたい」といったそうです。上の姉二人が始めたので、妹は有無を言わせず碁をやることになりました。
碁をやるからにはプロを目指せというのがうちの方針でした。趣味で楽しく続けるという選択肢はなかったのです。家では勉強するより3人でよく打っていました。打つ方が楽しいのですが、けんかのタネにもなります。勝ったら20円上げるよなどと父が言って、お小遣いで釣られたこともあります。小さいことから親にやれやれと言われていたので、いやになることもありました。姉が何回も「もうやめる」といっていたのを見ていたので、私は口には出しずらく心の中で思っていました。親が出かけると急いで家の鍵を閉めて、3人でテレビをこっそり観たこともあります。嬉しかったですよ。
本田会は週1回木曜日にあります。私たち3人はよく本田先生と兄弟子の吉田洋逸先生に2人と1人に分れて打って頂きました。7子からスタートして負けても強くなると置き石は減っていきました。「今度から2子で打とうね」といわれたときが一番嬉しかったですね。本田先生には週に1、2局ずつというペースで小学校3年から7年間打って頂きました。師匠に2、3局しか打ってもらえないという人が多いですから、珍しいんですね。
毎週難しい詰碁の宿題が出ました。1週間たってぎりぎり行きの電車の中で考えたこともあります。私たち3人とも難しい定石を知らなかったので、覚えるようにと定石の宿題も出ました。これも次の週、先生の前で詳しい変化まで並べて見てもらいました。
最初からプロ志望ですから、16歳のころプロになれなかったらどうなるんだろうと考えたことがあります。予選で全敗したからです。本戦も出たことがないし、院生のAクラスにも上がったこともありません。17歳のとき、入段予選をぎりぎりで通って本戦に出られました。目標は勝ち越しでしたが、2局残して8勝1敗。自力で勝てば入段が決まるのですが2連敗。しかし他の人も負けてプレーオフにならずに入段が決まりました。