三谷哲也
みたに てつや
Mitani Tetsuya

1985年8月25日生れ

群馬県出身
安藤武夫門下。2002年4月入段(東京枠)。2002年11月29日二段。2004年4月1日三段(賞金ランクで昇段)。2006年4月1日四段(賞金ランクで昇段)。2008年4月1日五段(賞金ランクで昇段)。2010年1月1日六段(賞金ランクで昇段)。2011年1月1日七段(賞金ランクで昇段)。
2012年12月31日現在通算成績=210勝129敗
2013年28歳??勝??敗通算???勝??敗
2012年27歳11勝12敗通算210勝129敗2011年1月1日七段(賞金ランクで昇段)。
2011年26歳21勝13敗通算199勝117敗2011年1月1日七段(賞金ランクで昇段)。
2010年25歳30勝10敗通算178勝104敗2010年1月1日六段(賞金ランクで昇段)。
2009年24歳15勝12敗通算148勝94敗
2008年23歳17勝12敗通算133勝82敗2008年4月1日五段(賞金ランクで昇段)。
2007年22歳16勝13敗通算116勝70敗
2006年21歳10勝14敗通算100勝57敗2006年4月1日四段(賞金ランクで昇段)。
2005年20歳22勝12敗通算90勝43敗
2004年19歳24勝13敗通算68勝31敗2004年4月1日三段(賞金ランクで昇段)。
2003年18歳25勝 9敗通算44勝18敗
2002年17歳19勝 9敗
2002年4月入段(東京枠)。2002年11月29日二段。
棋風:ものすごい力戦家。
揮毫:
2008年11月(第3回)広島アルミ杯若鯉戦優勝(23)

日本棋院の情報 写真(17歳) 写真(25歳)
【「NHK囲碁講座」2013年9月号より】
『NHKテレビテキスト 囲碁講座』誌上で連載中の、囲碁棋士の趣味を紹介するエッセイ「趣味のじかん」。2013年8月号で登場した三谷哲也(みたに・てつや)七段が今月も続投する。前回ご紹介した「山登り」が「動」なら、今回の「書道」は「静」。一見、真逆の趣味のように思えるが、黙々と打ち込むという意味では共通しているのかもしれない。
三谷/もともと字が下手で、親父からも「習った方がいいぞ」とよく言われてました。ある囲碁のイベントで棋士たちが自分の書いた色紙を手に壇上に上るというコーナーがあり、僕は「感謝」と書いたのですが、「謝」の字が間違っていると謝ちゃん(謝依旻女流三冠)に指摘され…、壇上でスポットが当たる中「間違えちゃいました」と(笑)。今まで生きてきた中で一番恥ずかしかった経験です。これが決定的なきっかけになって書道を習おうと思ったのですね。字の上手下手というより、単純に国語力の問題でしたね(笑)。書道は善津先生(趙善津九段)に紹介していただき、藤沢秀行先生や高尾紳路九段の師匠でもある柳田泰山先生の教室に通っています。柳田流は楷書をよくする流派で、レンガを使って一つ一つ組み立てるようなかっちりした独特の字体です。初めて先生の書を見たときから「かっこいいな」と魅かれました。単純作業をひたすら繰り返す時間が多く、これが性に合ってるみたいです。4時間ぐらい書き続けることもあるのですが、最初の3時間半はうまく書けない。最後の30分、疲れてきて、空っぽになってきて、うまく書きたいという欲がなくなってくると、そういうときの方がうまく書けるんです。なんか偉そうに言ってますけど、全然下手なんです(笑)。3年目の昨年、初めて書展に出させていただきました。今年もそろそろ書展のための練習に励みます。可能なかぎり続けていきたいですね。(談)

【「囲碁講座」2004年8月号(内藤由起子)】
今年4月賞金ランキングにより三段に昇段したばかりの三谷哲也三段は18歳。三谷三段が碁を覚えたのは小学1年の終り、7歳の時だった。少し前に碁を覚えた兄が、2、3段の父親と打っているのを見て興味を持った。その後は近くの碁会所に。通っている碁会所では、子供は三谷三段だけだった。碁会所で打っているうちに半年で3級になり、覚えて1年もたたずに小学生名人戦の群馬代表として全国大会に出場するほど上達した。
小学4年でも小学生名人戦全国大会に出場。そのとき趙治勲九段に「うちの合宿に来ないか」といわれ、5日間、趙門下の内弟子が暮らす合宿所で勉強した。帰り道の車中、迎えに来た父親が「実は趙先生から内弟子として来ないかといわれたが」。家に帰って家族会議をすると、母親はまだ早い、中学生になってからでもいいのでは、と大反対。しかし「行きたい」という三谷三段の意志を尊重し、小学5年になった直後、転校して趙治勲先生の内弟子になった。所が半年ほどで合宿所を出て行くことになってしまう。「内弟子になって家を離れ、あまりに寂しくて2ヶ月くらいしょちゅう家に電話をしていたら、塾頭の金秀俊七段に叱られました。また電車を乗り過ごして合宿所に帰るのが遅れ心配をかけたり。問題児だったんです」。
すでに院生になっていた三谷三段は、合宿所を出ると幕張の寮で生活を送ることになった。しかし、その幕張寮が閉鎖される。そこで寮母さんの仲立ちで安藤武夫七段に入門、内弟子生活を送ることになった。安藤門下は一時は神田英九段を始め、依田紀基九段、趙善津九段ら多くの内弟子を抱えていたが、三谷三段が入門したときは内弟子は二人になっていた。「兄弟子では趙善津先生、中小野田智己先生によく打って頂きました」。安藤七段の奥様には生活面を注意された。「まじめに勉強していなかった。自由時間を惜しんでも勉強しなければいけないのに、僕は学校の夏休みの宿題をやっていたり。肝が据わっていなかったんです。末っ子で甘やかされて育ったから」。
中学2年のときのプロ試験はまずまずの成績だったが、中学3年では予選落ち。入段を決めた16歳のプロ試験では「かなり覚悟を決めて受けました」。今では若手棋士の間で「勉強の虫」といわれるほどの研究熱心。つい1ヶ月前、大橋拓文三段、黄翊祖(こう・いそ)三段、安斎伸彰初段らと4人で研究会を立ち上げた。

【2001年1月12日 読売新聞(群馬版)】
◆趙治勲門下で修業、原点に
新しい顔が次々とタイトルを獲得し、世代交代が進む囲碁界。その荒波の中に飛び込もうと、決意も新たに新たな年を迎えた。中学卒業と同時に上京し、プロ棋士への道に挑む。四人兄弟の末っ子。小学校一年のころ、兄たちとアマチュア二段の腕前を持つ父が、白と黒の石を交互に打ち合う様子に引かれ、ルールを覚えた。父の手ほどきと、生来の研究熱心さからすぐに腕を上げ、当初は盤上を黒石で埋めるほどの置き碁で父と対戦していたのが、一年後には三子で対戦するまでに。
小中学生の大会で上位入賞するうちに、プロになりたいとの思いが芽生えていった。その漠然とした夢を、具体的な目標に変えたのは、小学四年の夏休みに受け取った一通の手紙だった。差出人は趙治勲。言わずと知れたこの世界の最高峰は、「うちの合宿に参加しないか」と誘ってきたのだった。その「合宿」とは、趙が全国から若い囲碁の才能を見いだそうと、各地で頭角を現している子どもたちを自宅に住み込ませて特訓する、いわばプロ棋士への私塾だ。合宿に参加したいと父に話すと、「あの趙先生が認めてくれるのなら」と賛成してくれた。五年生に上がると同時に転校し、千葉市に住む趙の門をたたいた。「合宿」は半年続いた。同じ年ごろの同期の門下生は七人。学校から帰ると、毎日寝るまで囲碁づけの毎日を送った。韓国から来て趙に師事していた弟子の金秀俊六段(現在)には、何度も繰り返し指導を受けた。この生活が、いまプロの道を選ぼうとする原点となった。
◆「厳しい世界、あえて挑戦」
中学生になってからは依田紀基名人や趙善津前本因坊らを育てた安藤武夫の門下生となり、毎週のように東京・渋谷まで電車で通った。一日の三分の一を碁盤に向かう日々が続いた。
プロを目指す日本棋院の院生のうちのAクラス(十二人)に名を連ねるまでになったが、プロの段位取得には、同棋院が行う本戦で勝ち抜かなければならない。毎年秋に行われる本戦に臨むのは二十五人前後で、うち勝率の高い上位三人だけが、プロの段位を許される。「碁に勝つのには、実力だけではなく、運や体調、いろんな条件が絡む。いくら実力があってもプロにはなれないこともある」と自分に言い聞かせながら、その条件をどうしたら乗り越えられるか、思いを巡らせる。
中学を卒業して、この四月からは親元を離れて都内での独り暮らしの生活が始まる。「どこまでやっても碁は難しい。プロは厳しい世界だけに、あえて挑戦してみようという気持ちにもなります」。少年は、さらに大きな活躍の舞台をめざす。