坂田栄男
さかた えいお
Sakata Eio
1920年2月15日生れ
A型
東京都出身
1929年増淵八段に入門。1935年入段、1935年二段、1937年三段、1938年四段、1940年五段、1943年六段、1948年七段、1952年八段、1955年九段。1964年年間30勝2敗の無敵を誇る。1978年から1986年まで日本棋院理事長を務めた。1992年文化功労賞受賞(72歳)。1998年に二十三世本因坊の称号(号は栄寿=えいじゅ)を得た。2000年2月体力の衰えを理由に引退(80歳)。通算1117勝654敗16ジゴ(日本棋院調べ)。2010年10月22日胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため東京都内の病院で死去。政府は2010年11月19日の閣議で文化功労者の坂田栄男氏に正四位を贈ることを決めた。
棋風:攻めが厳しく、サバキが巧い。
揮毫:幽玄(ゆうげん)
坂田栄男著作集
タイトル獲得数:64個(うち世界タイトル:0個)
対局日棋戦名年齢コメント
1983年(2期)NEC杯優勝63歳タイトル獲得数64に。
1982年(29期)NHK杯優勝62歳11回優勝。名誉NHK杯者に。
1981年(13期)早碁選手権戦優勝61歳
1980年(2期)JAA杯優勝58歳
1979年(1期)JAA杯優勝57歳
1977年(24期)NHK杯優勝57歳
1976年(2期)日本シリーズ優勝56歳
1976年(23期)NHK杯優勝56歳
1974年(22期)日本棋院選手権戦優勝53歳12回優勝。名誉日本棋院選手権者の称号獲得。
1973年(21期)日本棋院選手権戦優勝52歳
1972年(10期)十段53歳
1972年(20期)王座52歳
1972年(20期)日本棋院選手権戦優勝52歳
1972年(10期)十段52歳
1972年(19期)NHK杯優勝52歳
1971年(19期)王座51歳
1970年(18期)王座50歳
1969年(6期)十傑戦優勝49歳
1968年(7期)十段48歳
1967年(4期)十傑戦優勝47歳
1967年(22期)本因坊47歳7連覇。
1967年(6期)十段47歳
1966年(14期)王座46歳
1966年(21期)本因坊46歳
1966年(5期)十段46歳
1965年(20期)本因坊45歳
1965年(12期)NHK杯優勝45歳
1965年(5期)第一位戦優勝45歳
1964年(12期)王座44歳
1964年(3期))旧名人44歳
1964年(19期)本因坊44歳
1964年(11期)NHK杯優勝44歳7冠王を達成。
1964年(12期)日本棋院選手権戦優勝44歳
1964年(1期)十傑戦優勝44歳
1964年(4期)第一位戦優勝44歳
1963年(11期)王座43歳29連勝を記録。
1963年(2期)旧名人43歳初の名人本因坊に。
1963年(18期)本因坊43歳
1963年(11期)日本棋院選手権戦優勝43歳
1963年(3期)第一位戦優勝43歳
1962年(17期)本因坊42歳
1962年(9期)NHK杯優勝42歳
1961年(9期)王座41歳
1961年(16期)本因坊41歳高川秀格本因坊を破り、初の本因坊に。
1961年(8期)NHK杯優勝41歳
1961年(2期)第一位戦優勝41歳
1961年(6期)最高位41歳
1960年(8期)日本棋院選手権戦優勝40歳
1960年(3期)最強位40歳
1959年(2期)最強位39歳
1954年(4期)最高位39歳
1959年(6期)NHK杯優勝39歳
1959年(7期)日本棋院選手権戦優勝39歳
1958年(6期)日本棋院選手権戦優勝38歳
1958年(2期)囲碁選手権戦優勝38歳
1958年(5期)NHK杯優勝38歳
1957年(5期)日本棋院選手権戦優勝37歳
1957年(4期)NHK杯優勝37歳
1956年(1期)早碁名人戦優勝36歳
1956年(1期)最高位36歳
1956年(4期)日本棋院選手権戦優勝36歳
1955年(3期)日本棋院選手権戦優勝35歳
1954年(2期)日本棋院選手権戦優勝34歳
1951年(1期)最高段者戦優勝31歳碁聖戦の前身。六段で初タイトル獲得。
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写真 写真 写真(43歳) 写真(62歳) 写真(72歳) 写真(80歳)
【2010年11月1日 産経新聞】
囲碁界初の文化功労者になった昭和の大棋士、坂田栄男二十三世本因坊が亡くなった。昨年5月に83歳で死去した藤沢秀行(ひでゆき)名誉棋聖の弟子として、個性派2人の戦いを見てきた高尾紳路(しんじ)九段(34)が、坂田流の生き方を振り返る。
                   ◇
お体がすぐれないとは聞いていたので、死去の報に「ついにこの日が来てしまったか」と寂しくなりました。シュウコウ(秀行)先生に続き、一時代を築いた棋士が遠くへ行かれてしまいました。私がプロになった14歳のとき坂田先生の対局を見学する機会に恵まれました。60代後半で、だいぶ丸くなられていたそうですが、それでも碁盤を前にしたときの眼光の鋭さには怖さを覚え、存在感に圧倒されました。入段前もプロになってからも、勉強のためシュウコウ先生の棋譜を並べていると、何度も対戦相手に坂田先生が登場する。私が戦っているわけではなく並べているだけなのに、2人の気迫が伝わり手に汗をかくほど。序盤、中盤から突然始まる死闘は、教科書のようなきれいな碁ではないんです。どちらがいい、悪いではない気迫のぶつかりあいを感じました。最近であれほど意地がぶつかりあった対局はないのでは。棋譜を並べた後の世代の者を感動させることができるなんてうらやましい限りです。
豪放磊落(らいらく)な棋風の師匠と、「カミソリ」と言われた坂田先生は、世間で言われている通り、仲が良かったとは思えません。シュウコウ先生の方が対局数は少ない(852勝649敗8ジゴ)ですが、互いに自分の方が強いと思っていたでしょうから。ただ、互いに認め合っていたのは事実でしょう。昨年7月のシュウコウ先生を偲(しの)ぶ会には、足を運んでいただきました。私が本因坊戦七番勝負で負けた1週間後だったこともあり、「勝負ごとなんだから、勝つときもありゃ負けるときもある。まだ若いんだから、これから頑張ればいい」と優しく励ましていただいたのを覚えています。ライバル藤沢秀行の弟子だったことで、なにかと目をかけていただきましたが、張栩(ちょうう)さん(十段)もかわいがってもらっていました。シュウコウ先生も、張栩さんの師匠の林海峰(りんかいほう)名誉天元も、坂田先生と対戦が多かった。伝聞ですが「いい弟子をもててうらやましい」とおっしゃっていたと。私たちのことを、ご自分たちと同じライバル関係に重ねておられたのかも。15年ほど前でしたか、坂田先生と対局できるチャンスが巡ってきました。しかし、直前に体調が悪くなったとのことでお流れに。対局できていたら、どれだけ勉強になり、一生の思い出になっていたでしょう。ご冥福をお祈りいたします。(談)
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【プロフィル】坂田栄男
さかた・えいお 大正9年、東京生まれ。1117勝654敗16ジゴ(引き分け)。二十三世本因坊の資格を持ち、号は栄寿(えいじゅ)。昭和53年から8年間、日本棋院理事長も務め、平成4年に文化功労者。12年に引退。10月22日、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂で死去した。享年90。

【2005年3月23日 中国・体育週報(謝鋭)】
坂田栄男九段は1962年に第1回目の7冠王になっている。内訳は、名人、本因坊、王座、日本棋院選手権(天元前身)、日本棋院第1位、NHK杯、最高位。1964年に第2回目の7冠王になっており、内訳は、最強戦、本因坊、王座、日本棋院選手権、日本棋院第1位、NHK杯、最高位。この時の坂田の実力は図抜けており、1964年は十段のタイトルを逸した以外はタイトルをすべて獲得し、この年、30勝2敗を記録している。2敗は藤沢朋齋九段に負けたもの。

【「囲碁」2004年3月号 「坂田詰碁」(坂田栄男)】
私は小学校4年生で増淵辰子先生の一門に加えさせて頂きました。内弟子ではなく、いわゆる"通い"です。道場は毎週金曜日に開かれていました。私は金曜日には増淵道場に、土曜日には院生として日本棋院の少年研究会に通うようになりました。道場では基本的にはプロを目指す子供同士で打ちます。対局が終わると先生が一局一局丁寧に講評してくれます。この講評が大変ためになりました。増淵道場に限らず、日本棋院の研究手合も必ず講評を受けます。当日に受けられなくても後日、その機会はあります。棋譜さえ取っておけば、いつでも強い人の講評を受けることができます。局後に棋譜を採るのは大変でしょうが、棋譜を採ろうという意識だけでも碁に身が入ろうというものです。