桑原陽子
くわばら ようこ
Kuwabara Yoko
1974年6月14日生れ

千葉県出身
小林光一門下。1983年(第4回)小学生名人戦第7位。1996年入段。2000年7月五段。大の巨人ファン。2006年3月11日、桑原慶さんと結婚。2007年4月桑原陽子に改名(旧姓・祷陽子)。2010年5月六段。
棋風:力強く戦う棋風。
揮毫:初志、友、究其崖底
タイトル獲得数:1個(うち世界タイトル:0個)
対局日棋戦名年齢コメント
2000年(第19期)女流本因坊26歳
2001年1月1日以降国際棋戦成績=3勝5敗(対韓国:0勝3敗、対中国:3勝2敗、対他:0勝0敗)
対局日棋戦名勝敗対戦相手
2006.11.26大理旅行杯戦金恵敏四段(韓国)
2006.11.25大理旅行杯戦王晨星初段(中国)
2002.11.07正官庄杯戦尹瑛善二段(韓国)
2002.01.30豪爵杯戦朴ヤ恩三段(韓国)
2002.01.29豪爵杯戦鄭岩二段(中国)
2001.06.29日中女子新秀対抗戦徐宝三段(中国)
2001.06.28日中女子新秀対抗戦徐宝三段(中国)
2001.06.27日中女子新秀対抗戦徐宝三段(中国)
日本棋院の情報 新浪体育 写真
【2001年5月28日 朝日新聞(千葉版)(聞き手・足立朋子)】
――囲碁のプロ棋士になれるのは、年間数人の狭き門とか
「ええ、日本棋院の院生になり、年に1度の入段試験を受けるのですが、その中でプロになれるのは、総当たりリーグ戦をやった上位3〜5人。私は11歳で院生になったのに、プロになるまで10年もかかってしまいました。いまプロ棋士が約400人で、うち女性が50人です」
――この道に入るきっかけは
「父がアマチュア4段くらい打つので、5歳ごろから姉と一緒に市川の碁会所によく連れて行かれていました。当時は碁なんておじさんばかり。正直、あまり好きじゃなかったんですが、泣いてもひっぱっていかれて、やめられる感じじゃなかったですね」
――囲碁版「巨人の星」ですね
「父は、『実力と男女平等の世界』と、棋士の職業が気に入っていて、プロ棋士にするのが娘の幸せだと思ってたみたい。実際、囲碁は一部の女流大会を除き、男性と同じ予選から打たせていただいて、頂くお給料も一緒。勝ち続けて多くの対局をすればそれだけ収入が増え、本当に実力次第です」
――自分の意志で「プロになろう」と決めたのは
「縁あって小林光一先生の門下生になり、小学5年生で院生になったので、そのころかな。高校は1年の9月でやめました。勉強は好きじゃなかったですね。プロ棋士と言うと『数学が得意でしょ』とよく言われるんですが、全然ダメでした」
――昨年、初挑戦で「女流本因坊」のタイトルを手にした
「女流本因坊は、一昨年に挑戦者決定戦の決勝までいって、そこで負けてしまった。昨年はどうしてもそこを突破したいという気持ちが強かったんです。日々、女流本因坊になるんだと自分に言い聞かせてましたね」
――おっとりとした印象ですが「けんか碁」タイプとか
「昔からそう言われます。打っているときは鬼の形相で、この間もNHK杯の録画を見て、かなりへこみました。実は気が強いんだと思います。『パワーがある』と言われる半面、自分に不利なときにも戦いを仕掛けがち。まだまだ判断が正確じゃないんですね」
――囲碁は海外や子どもたちにすそ野が広がっている、と聞く
「韓国では子どもたちが学習塾のように囲碁の塾に通っているそうです。ヨーロッパにも2万人ぐらい愛好者がいる国がたくさんあって、私たちも指導に行きます。日本でも『ヒカルの碁』という漫画が人気で、囲碁教室にも子どもたちが増えてますよ。年齢や言葉を問わないコミュニケーションの道具という感じがしますね」
――今後の目標は
「今は、勝敗よりも対局を重ねて自分が成長していくことが、日々本当に楽しい。師匠の小林先生は『大切なことは目に見えないんだよ』と、いつもおっしゃいます。人生も碁も見えない部分があって、鍛錬によって気づかなかったことが見えてくる。一流の先輩は、見ていて感動する手を打ちます。将来、私もそんな棋士になれたらと思います」
◆メモ◆1974年6月、市川市生まれ。5歳で囲碁を始め、小学3年のとき、女流アマ囲碁選手権に大人に交じって出場し、7位入賞。小学5年で日本棋院の院生に。1996年、プロ入段試験に合格し、現在五段。昨年、第19期女流本因坊戦に初挑戦、タイトルを奪取した。野球観戦と買い物が好きな「普通の女の子」。女流本因坊の賞金は両親に渡したという。