小川誠子
おがわ ともこ
Ogawa Tomoko

1951年4月1日生れ

福井県出身
1966年木谷實門下。1970年入段、1971年二段、1974年三段、1975年四段、1992年五段、1995年六段。
棋風:
揮毫:静心
タイトル獲得数:4個(うち世界タイトル:0個)
対局日棋戦名年齢コメント
1987年女流鶴聖36歳
1986年女流本因坊35歳
1980年女流選手権優勝29歳
1979年女流選手権優勝28歳
日本棋院の情報 産経新聞「ファイト!!」
【2013年12月14日 『NHK囲碁講座』2013年12月号より】
女流本因坊3期(前身である女流選手権の2期を含む)、女流鶴聖1期と、女流碁界の歴史に確実な足跡を残してきた小川誠子(おがわ・ともこ)六段。その名前が囲碁ファンの間に知れ渡ったのは1970(昭和45)年のプロ入りよりもかなり早い、1965年のことだった。女流アマチュア選手権戦において、14歳になったばかりの少女が日本一になったのである。小川六段に入門前後の少女時代を聞いた。
*  *  *
(当時の写真を眺め、しみじみと)懐かしいですね。ちょうど14歳になったばかりですね。「おかっぱ本因坊」とか呼んでいただいて…。この大会は優勝候補本命の方がおられて、私はダークホース的な存在でした。ですから全然プレッシャーがなく、気が付いたら決勝戦に進んでいました。その決勝の相手も普段から勝てない方だったのですが、石が取れてしまって優勢になったのです。そのときふと相手の方を見たら、涙を流しておられまして、本当にドキッとしました。勝てる喜びと同時に身が引き締まる気がして「もし私が将来プロになったら、こういう思いをしなければならないのか」と、子供心に考えさせられたものです。優勝できたことがうれしかったことはもちろんですが、このことも強い思い出として残っています。あと、私の出身地は福井県なのですが、教えていただいていた中部総本部所属の酒井利雄先生(故人・八段)が喜んでくださって、すごくうれしかったことも覚えています。そして、この優勝がきっかけとなって木谷實先生(故人・九段)に声をかけていただき、名古屋より上京して内弟子として入門することになるのですから、私にとってはものすごい転機の優勝だったということになるわけですね。囲碁雑誌で見て知っていた憧れの木谷道場ですからね。不安よりもワクワク感のほうが大きくて上京したのですが、初めて泊まらせていただいた翌朝の光景が、今も忘れられません。7時半くらいに起きて2階の勉強部屋に上がっていったのですが、そこではもう先輩の内弟子たちが皆、勉強していたのです。その姿を見てドキッとして「ああ、私は本当にこの世界でやっていくんだなあ。やっていけるかしら」という思いと「よし、この世界で頑張ろう!」という思いが交錯したものでした。当時の弟子のメンバーですが、大竹英雄先生はもう独立しておられて、石田芳夫さん、加藤正夫さん、武宮正樹さん、小林光一さん、趙治勲さんを筆頭に、そうそうたる方たちがおられました。本当にすごい顔ぶれで、まさに黄金時代だったと思います。こうした人たちの修業時代を見せてもらい、一緒に過ごせたというのは、私にとって何よりの財産――実に幸せなことだったと思っています。

【2003年7月7日 東京新聞夕刊(小川誠子)】
18歳でプロ棋士の資格を得てから今まで「なぜ、職業として棋士を選んだのですか?」という質問を数え切れないほど受けました。今でこそ「囲碁棋士」の存在を知ってくださる方は多いけれど確かに珍しい職業といえるでしょう。「棋士です」「棋士ですか、ところで普段はOLの仕事ですか?」と聞かれたことも度々。今は隔世の感があります。

私が囲碁を覚えたのは6歳の時。父からの手ほどきでした。父の姉(伯母)が戦争未亡人で苦労していたのを目の当りに見ていた父は、これからの女性は手に職を持たねばと強く思い、娘に一生続けられる仕事を、それも特殊なことを身に付けさせたいと考えていたようです。ある日、祖父と父が対局している傍らで盤上に興味を示した私を見て、父は(よし、これを)とピンときたとか。

その日以来、プロに近い力を持っていた父によって「続けることが大切」と、小学生の6年間、学校に行く前と帰ってからと碁の勉強が始まりました。遊ぶ暇もなく、辛いと思うときもありましたけど、父の熱心さが子供心にずっしりと重く響き、止めることができませんでした。

その父がなくなる直前、「自分が、誠子の道を決めてしまって申し訳ないと思うときがある。もしかすると、他の道があったかもしれないのに」と言い、私は初めて父の心の葛藤を知りました。「この道で感謝しています」と答えたら、嬉しそうに微笑んだ父。父に決められた道だけれど、歩むのを決めたのは私。年を重ねるにつれ、父への想いが膨らみます。