曲励起
まがり れいき
Magari Reiki
1924年11月13日生れ

三重県出身
日本棋院・東京本院所属。岩本薫門下。1942年入段。1974年九段。2005年6月13日引退。
棋風:
揮毫:
タイトル獲得数:1個
1959年(第3期)囲碁選手権戦優勝(35歳)
日本棋院の情報
【2006年12月16日 朝日新聞(夕刊)―曲励起(まがり・れいき)】
私は岩本先生の最初の内弟子です。大正から昭和にかけての碁打ちというのは、いわば商店に見習いで入って一人前になれば、のれん分けしてもらうような感じでしたね。もっぱら碁好きのお金持ち相手の稽古(けいこ)が仕事です。現代のタイトルを目指して勝負を争うなんてのとは全く違う。世間で碁打ちは遊び人と思われていたでしょう。棋士の社会的な地位は低かった。
先生も島根県から東京に出て碁打ちになったものの、「道楽してるより、何かまじめな商売でもしたらどうか」といわれたり、威張るパトロンからお金をもらったりが、いやになったに違いありません。おまけに大正13(1924)年にできたばかりの日本棋院は本因坊一派が主流でしてね、先生の師匠の広瀬平治郎先生は「外様大名」で羽振りがよくない。
それで囲碁をやめ「ブラジルに渡ってコーヒー王に」となったのです。先生は後年「男子一生、こんなこと一筋に打ち込んでていいのかと反骨気分が高まった」といってました。ポルトガル語の夜学に通い、移民の実情も勉強して昭和4年の春、生まれて半年たたない長男を実家に預けて奥さんと2人、神戸港から大阪商船のサントス丸に乗船します。先生は27歳。当時の新聞に写真つき2段で載ってます。
シンガポールからマラッカ海峡を抜けてインド洋を下り、ケープタウンから大西洋へ1カ月半がかりの航海。赤道を冷房のない船で越えるので子供たち11人が船の中で亡くなり水葬したと、日記にあります。サンパウロにたどり着いたが言葉は十分に通じないし、農場にはトイレがない。開墾は思うに任せなかったようです。先生はアメーバ赤痢にかかり、奥さんはバセドー病を患ってしまう。結局、コーヒー王は断念して昭和6年春に帰ってきた。ほぼ2年近く、それは悪戦苦闘だったでしょう。
私が内弟子になったのは、先生が棋士に戻って3年後です。私は10歳そこそこの少年だし、あまり失敗話はされなかった。でも、今考えても先生は「立派な変わり者」だったと思います。(談)