橋本宇太郎
はしもと うたろう
Hashimoto Utaro
1907年2月27日生れ

大阪府出身
P越憲作門下。1921年入段、1922年二段、1924年三段、1925年四段、1933年五段、1936年六段、1942年七段、1946年八段、1950年日本棋院離脱、関西棋院創設。1954年1月九段(関西棋院初の大手合による昇段)。1994年7月24日逝去。享年87歳。
1945年、岩本薫七段の挑戦を受けた広島で行われた第3期本因坊戦第二局は"原爆下の対局"として有名。1950年から1993年まで関西棋院理事長。
棋風:「天才宇太郎」「火の玉宇太郎」と称された。
揮毫:
タイトル獲得数:15個(うち世界タイトル:0個)
対局日棋戦名年齢コメント
1980年(24期)関西棋院第一位決定戦優勝73歳
1971年(9期)十段64歳
1970年(2期)早碁選手権優勝63歳
1970年(7期)プロ十傑戦優勝63歳
1969年(13期)関西棋院第一位決定戦優勝62歳
1968年(12期)関西棋院第一位決定戦優勝61歳
1963年(10期)NHK杯戦優勝56歳
1962年(1期)十段55歳
1956年(3期)NHK杯戦優勝49歳
1956年(4期)王座49歳
1955年(3期)王座48歳
1953年(1期)王座46歳
1951年(6期)本因坊44歳
1950年(5期)本因坊43歳
1943年(2期)本因坊36歳
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【1989年3月22-28日 読売新聞東京夕刊文化欄(聞き手・瀬尾寿男記者)】
[変幻自在流]橋本宇太郎さんに聞く(1)関西棋院の独立に布石(連載)
はしもと・うたろう 明治40年大阪市生まれ。10歳で久保松勝喜代四段に入門、13歳で上京し、瀬越憲作五段の内弟子になった。大正11年初段、昭和21年八段、29年九段。18年、第2期の本因坊を獲得し、第5、6期と通算3期本因坊。ほかに十段2期、王座3期など。25年に日本棋院から独立して関西棋院を創立した。
                  ◇
 四百人ほどいるわが国の囲碁の現役棋士のなかで数少ない明治生まれの橋本宇太郎さん。軽妙華麗な碁風は「変幻自在流」と称され、また、関西復権を叫んで関西棋院を興して「火の玉宇太郎」とも。関西棋院の理事長を務めながら「八十歳には八十歳の碁が打てる」と、いまも盤上に情熱を注いでいる橋本さんに話を聞いた。
    ◇
 関西棋院は来年、創立四十周年を迎えます。日本棋院から独立するなど夢にも思っていなかったことでしたが、いまは、関西にも棋院が存在してやっていける力があった、その潜在力を発揮できてよかったと思っております。私が作ったということになっておりますが、私は創立にかかわっただけで、これは関西の棋士みんなが作ったものです。大事に育ててほしいですね。
 最近は地方復権が叫ばれていますが、当時の囲碁界は東京中心でしてね。強い棋士が東京に集まっていて、そういう人たちと対局するには一日がかりで上京しなければならない。特急でも八時間かかりました。棋士を受け入れる寛大さがなかったのでしょうか、大阪では棋士の生活も厳しかった。碁の修業も東京へ行かないと強くなれないといわれていたものです。
 私も十三歳で上京し、瀬越憲作先生(当時五段)の内弟子になりました。それまで三年間通っていた大阪の久保松勝喜代先生(当時四段)が、東京で修業させようと世話をして下さったのです。
 瀬越先生のところで十三年間もお世話になり、この間に大正十一年に初段、昭和八年に五段になりました。日本棋院の棋士として東京で一本立ちができ、昭和九年に結婚、先生の家の近くに居を構えた。東京の人間になり切ったつもりでいたのです。
 戦争が激しくなって、十八年に両親の住んでいた宝塚に疎開しましたが、戦争が終わっても大阪にいては対局の相手が少ないし、碁を掲載してくれる新聞もなくて、生きていくのが容易でない。それで一度は東京に帰ろうと決心した。
 そのころたまたま大阪の天王寺でアマチュアの囲碁大会が開かれ、私が招かれてあいさつをしました。これで関西とはお別れだと思い「関西は碁打ち一人が生きていくのも容易でないところです。私は東京に帰ります」といった意味のことをしゃべったわけです。
 そして帰ろうとして玄関に出たところ一人の紳士が寄って来て「梅田まで私の車で」という。梅田に着くと「私の事務所に寄ってお茶でも」と誘う。木村鉛鉄という会社の木村秀吉社長でした。初対面だったのですが、いろいろ話しているうちに、「大阪の実業家の一人として、このままあなたに東京に帰ってもらうわけにはいかないと思う。大阪で一人の棋士も世話できないというのではさみしい。急にこんなことを言うのはなんだが、私に世話をさせてくれませんか」と申し出られた。
 瀬越先生に相談の手紙を出したところ「人の好意はすなおに受けなさい」と返事をいただき、木村さんに「関西にとどまることにしました」と伝えると、木村さんはその場で三十万円の小切手を切って「これを支度金にして橋本囲碁会館を作りましょう」といわれた。私は「橋本囲碁会館などはいりません。関西の囲碁会館を作りたい」とお答えしました。
 そのころ東京でも日本棋院復興の運動が始まり、募金で会館を建てることになって、日本棋院総裁の津島寿一さんから「橋本君、大阪で五十万円集めなさい」と募金割り当てが来た。
 協力して下さる方がいて募金は木村さんの三十万円を基礎に九十八万円も集まりました。ところが集まってみると「大阪で集めた金を何も東京へ送らないでもよいではないか。関西に会館を作ろう」という意見がファンの間で強くなりましてね。昭和二十三年に天王寺区細工谷に、戦災を免れた大きい家を買い取って「関西棋院」の看板をあげました。(聞き手・瀬尾寿男記者)

[変幻自在流]橋本宇太郎さんに聞く(2)棋士二分した“独立宣言”(連載)
昭和二十三年に大阪に関西棋院の会館ができて、おさまらなかったのは日本棋院総裁の津島寿一さんです。東京に日本棋院会館を作るために募金を始めて関西にも割り当てたのに、橋本は集まった金を東京に送ってこないで勝手に大阪に会館を作った。話が違うじゃないか、というわけです。
 津島さんの立場なら怒るのも当然だったでしょうが、関西棋院会館を作ったのは私一人で決めたことではないと、いくら説明しても津島さんは納得してくれない。津島さんと私のケンカになり、これが日本棋院と別れる元になったのです。
 津島さんは元大蔵大臣で私も若いころ随分お世話になっているんです。ケンカといっても津島さんの本心は「関西棋院を作っても大阪の人間が君を世話するだろうか、君がかわいそうだ」ということで、私にそうおっしゃったことがあります。
 関西棋院を作る前に瀬越憲作先生に相談すると「君の信念通りにやりなさい」と言われ、大倉喜七郎さんの家へ連れて行ってくれました。大倉さんはそれまでのいろんな団体を統合して日本棋院にまとめた功労者ですね。その大倉さんが、「時の流れだ。関西棋院を作るのはけっこうではないか。互いにせっさたくますればよろしい」と許可をしてくれました。日本棋院の理事をしていた永野護さんも「おれが理事をしている間は関西棋院は絶対につぶさない」と励ましてくれていたんです。
 関西棋院が日本棋院から独立して現在の「関西棋院」になったのは昭和二十五年です。この間には随分いろんなことがありました。  独立できたのは関西に独立の機運が高まっていたからです。棋士の間で日本棋院に対して不満があった。昇段を決める大手合を関西独自で行えないし、免状も出せない。免状は全部、日本棋院の名で出し、関西棋院は取り次ぎをするだけでした。新聞社と棋戦の交渉や契約をする権限もない。名前は関西棋院でも中身は日本棋院の支店みたいなものだったですね。
 昭和二十五年九月二日、関西棋院理事会が日本棋院に文書を出しました。「東京に関東棋院、大阪に関西棋院、名古屋に東海棋院などが出来、その総合調整機関として日本棋院があるのが望ましいと我々は主張しているのに賛同が得られない。このままでは関西棋院存在の意味がないから、これから関西棋院独自で免状を発行する」というような内容で、独立の通告です。
 日本棋院の回答は「我々としては元来独立体としての関西棋院の存在は認めていない。免状は素人に対するものは要求を認めてもよいが、棋士に対するものはすぐに回答できない」というものでした。
 関西棋院には当時五十人ほどの棋士がいましたが、日本棋院と抗争を続けているうちに独立派と、日本棋院との協調派に分かれてしまった。私が津島さんと大ゲンカをするものだから、橋本と一緒にいたらどんなことになるかわからん、と不安に思った人もいたのでしょう。
 表決しようということになり、九月十三日に評議員会を開いて投票したところ二十対十二で独立派が多数を占めたのです。
 協調派の棋士たちは細工谷の関西棋院を出て、市内出入橋に「日本棋院関西総本部」の看板を出しました。
 棋士の人数はほぼ半分ずつ。師弟、兄弟弟子なのに別れ別れになった人もいました。(聞き手・瀬尾寿男記者)

[変幻自在流]橋本宇太郎さんに聞く(3)関西の命運かけた坂田戦(連載)
碁を覚えたのは八歳のころです。家の近所に碁席があって大人が楽しそうにやっているのをのぞき込んでいるうちにわかってきたんですね。専門家になっている人はたいていお父さんやおじいさんから手ほどきを受けている。私のように碁席で覚えたというのは珍しいでしょうね。
 大正十一年に十五歳でプロの初段になり、これまでに千数百局は打ったでしょうか。私の碁を人はいろいろ評してくれますが、自分で語る資格はありません。
 生涯の一局をあげろと聞かれたらやはり、昭和二十六年に打った坂田栄男さんとの本因坊戦の碁です。これしかありません。
 私は昭和二十五年に岩本薫さんから、「本因坊」のタイトルを奪い返して二度目の本因坊になった。当時の唯一最高のタイトルです。そして、その直後に関西棋院が独立したわけです。
 日本棋院は、本因坊はもともと日本棋院のタイトルなのに橋本が持ち逃げしたと怒りましてね。しかし結局は挑戦して取り戻すほかないとなったのでしょう。リーグ戦で優勝した坂田さんが私に挑戦することになったのです。
 関西棋院も条件を出しました。挑戦を受ける代わりに、関西棋院の棋士も日本棋院の棋士と同じように手合が出来るようにしてくれということです。独立してから日本棋院は関西棋院棋士との手合を禁止していたのです。言葉は悪いが、関西棋院は本因坊戦をエサにして交流しようとしたわけです。
 坂田さんとの七番勝負は背水の陣だったですね。勝つか負けるかで関西棋院の運命が変わりますもの。タコの糸が切れてしまう。碁界も、本因坊が箱根を越すか越さぬかと沸騰したものです。
 一局目は負け。二局目に勝ちましたが三、四局目も負けて一勝三敗のカド番に追い込まれたとき、大阪で私を後援してくれていた人が「もう負けていらっしゃい。負けたら、もっと目抜きのいい場所に新しい囲碁会館を建てましょう」と言ってくれましたが、私は負けたら碁界を去ろうと思っていた。
 もう日本棋院には絶対に帰れないし、大阪にも帰りにくい。一家でハワイに移住する気でいたのです。ハワイに行ったことはなかったのですが、気候がよさそうだし、こどもたちに英語を身につけさせるのがよいだろうと。
 運よく五局目、六局目に勝って最後の七局目は三重県・賢島のホテルで打ちました。
 私も少し気が立っていたのでしょう。対局の前の日にホテルに着いたとき新聞記者から「ここの見晴らしはどうですか」と聞かれ、「景色を見に来たのではありません」と言ったのを覚えております。大人げのないことでした。いまなら絶対にそんなことは言いませんけれど。
 坂田さんに勝てるとは思っていなかったですね。坂田さんは強くて、そのころから「芸」が違っていましたから。
 この七局目はまずい碁でした。勝負は黒番の私が三目半勝ったのですが、内容はよくありません。運がよかったのです。しかし心根をすり減らした七番勝負でした。四月に始まってから六月までに体重が八キロも減っていました。(聞き手・瀬尾寿男記者)

[変幻自在流]橋本宇太郎さんに聞く(4)詰め碁の楽しみ、息長く(連載)
読売新聞(大阪、西部本社版)に連載している「橋本囲碁講座」が先日一万一千回を超えました。一日一題の詰め碁を、昭和二十九年から出題し始めて、三十五年間になりますか。ほかにも発表しているのがあって、これまでに作ったのは全部で二万題ぐらいになるでしょう。
 空前のことだろうとほめていただくことがありますが、詰め碁を作るのがいまは趣味なんです。
 対局の日以外は毎朝、碁盤の上に白石と黒石をひと握りずつまき散らして、適当にいじっていると何題かできます。神戸の自宅から大阪の関西棋院まで一時間ほどの電車のなかでも何題か考えます。
 アマチュアの碁を見ていても自然に筋が浮かんでくる。特にアマチュアの碁は手を抜いていることが多いので、その手を抜いているところが手筋になって、一局見ていると二、三問はできますね。それを自宅に帰ってから整理して書きとめておくわけです。ことしの一月、棋聖戦でニューヨークに行ったときにも、一週間で随分たくさん作って帰りましたよ。
 最初は私も詰め碁を出題された方です。大阪で久保松勝喜代先生の道場に通っていたころ、毎週一題ずつ宿題を出される。それがだんだん難しい問題になって、これを解くのが実戦に役立ちました。詰め碁は難しいと勉強しないアマチュアがいますが、碁は生き死にの勝負なのですから、詰め碁が碁の根本なんです。
 上京して昭和八年に五段になってから、ある月刊雑誌に月一題ずつ出した。最初の出題です。一題で確か五円いただきましたか。結婚したばかりの家内に毎月、こまごましたものを買ってやりました。
 私にとって詰め碁の効用はいろいろありましてね。東京で対局して神戸に帰る新幹線で関西の財界の方と乗り合わせるのです。話しかけられて、いろいろ聞くことは有益なのですが、私は対局の翌日で疲れている。そんなとき即席で詰め碁をつくって渡すんです。少し難しそうなのをね。これで大阪まで解放されたことが何度かありました。
 最近のたいていの雑誌の詰め碁は解答も一緒に出ている。一週間とか一か月がかりで解いた昔と比べて安直になりましたが、それでいいと思っているんです。解くのがめんどうならすぐ答えを見てけっこう。答えを見るだけでも強くなりますから。
 昭和三十六年にヨーロッパ囲碁選手権戦に招かれて行ったとき、パリで二十数人のアマチュアに、あすまでに解いてみなさい、とアマ五段クラスの詰め碁を出しましたらね、驚いたことに二十人ほどが正解を持ってきた。納得できるまで頑張ったんでしょう。国民性の違いのようなものを感じたことがありましたが。
 佐藤さん(直男九段)、加田さん(克司九段)ら後世に残るような立派な詰め碁を作っておられる棋士もいますが、私のはファンに楽しんでもらう詰め碁です。
 読売新聞用には、用意してあるのがもう五百題になりました。いま私が死んでもしばらく連載が続くかもしれません。
 連載物で一万回を超えたものは珍しいということですが、毎日新聞に載っている加藤芳郎さんの漫画が、一万回を超えていますね。でも私より少し回数が少ない。まだ当分は追い抜かれないで済みそうです。(聞き手・瀬尾寿男記者)

[変幻自在流]橋本宇太郎さんに聞く(5)勝負を生かす「時間短縮」(連載)
碁は世界的になり、大勢の人に見てもらう時代になりました。テレビの碁がそうですね。見てもらうには勝負にあまり長時間かかるのはよくありません。
 「碁は五時間」。これが関西棋院をつくったころからの私の持論なんです。語呂(ごろ)がよろしいでしょう。
 一局の碁を五時間で打つのですから一人の持ち時間は二時間半。これでは少なすぎるという人には、二倍の一人五時間までならよろしいのではないですかと言ってきました。
 専門家なら勉強は日ごろ家でするもので、いったん碁盤を挟んで相手と向かい合ったらもう勝負ですから、早く、いい碁が打てなくてはいけません。
 いまの国内対局は午前十時に始まって昼食と夕食の休憩が四十五分ずつありますね。これはムダなことですし、勝負の途中で碁盤の前を離れるのがよくないのです。
 二人合わせて五時間なら食事の休憩が要りません。トイレに立つのは仕方がないことかもしれませんが、それだって本当の勝負ならおかしい。廊下やトイレのなかでだれかと会うと、目の色だけでわかりますものね。形勢がよいか悪いか、石の生き死にで見落としているところがあるなど、専門家同士ならすぐピンとくるのです。
 昔は「フンといったらフン目違う」といわれたぐらい厳しいものでした。フン目に別に意味はありませんが、要するにささいなしぐさでも勝敗に影響するということです。
 ですから私はひとの対局室には入らないことにしています。棋士のたしなみだと思うのです。
 昔の対局は時間制限がなかった。それが持ち時間制になって十時間になり六時間になり、ここ三、四年の間にほとんどの棋戦が一人五時間に短縮されました。わが意を得たり、です。日本と中国の対抗試合や昨年始まった世界囲碁選手権・富士通杯は三時間ですから私の持論に近づいてきました。三時間だと聞いてついうれしくなり、昨年、読売新聞社の日中囲碁決戦で中国の選手が来日したとき聶衛平さんと打ちました。見事に負かされましたが。
 日ごろの対局は時間が短縮されてきたのに大きなタイトル戦はいまだに一人八時間とか九時間で、一局を二日がかりで打っている。これは早く廃止して、一日制にすべきだと思いますね。対局者が一人は大上段に、一人は正眼に構えて向かい合っているのに「きょうはこれまで、またあす」というのでは、気合が抜け、その時点で勝負が死んでしまいます。私も若いころは早く打ったものです。いまは打っていただく立場ですから、相手に合わせて打っております。早く打つにはある程度、勝負に恬淡(てんたん)でなければいけません。
 尊敬している呉清源さんも岩本薫さんも引退された。お二人とも勝負に恬淡でした。私も十二年前の第一期棋聖戦で、藤沢秀行さんと七番勝負を打ったとき、もし棋聖になれたら引退しようと思ったことがありました。不遜(ふそん)だと神の怒りをかったのでしょう。勝負に負けて、これは死ぬまで打てという啓示だろうと考えました。執念もあります。八十二歳になりましたが、八十二歳には八十二歳の碁が打てるのではないかと思っているのです。(おわり)

【1954年12月22日 朝日新聞】
今年、藤沢庫之助、呉清源に続いて橋本宇太郎が大手合で九段に昇段した。これに対し日本棋院は異議を申し立てた。12月21日現在、橋本、藤沢の対戦成績は橋本の4勝1敗。よって呉、橋本、藤沢の順。
当時、日本の囲碁ファンは500万人。これに対して専業棋手は150人。九段が3人(藤沢庫之助、呉清源、橋本宇太郎)、八段は7人(木谷実、岩本薫、坂田栄男、宮下秀洋、島村利博、杉内雅男、高川格)。