大竹英雄
おうたけ ひでお
Otake Hideo

1942年5月12日生れ
A型
福岡県北九州市出身
木谷実門下。1956年入段(13歳)。1970年九段。林海峰九段と一時代を築き「竹林時代」といわれた。2002年8月1日から名誉碁聖を名乗る。
棋風:序盤は亀の歩みのようにゆっくり。じっと力を蓄え、中盤にチクリ、チクリと脅かしてくる。厚みにものを言わせて押し切る棋風。遅くなっても形にこだわる厚味派。小目が多い。「早碁の神様」と言われる。
揮毫:石心(せきしん)、洗心
大竹英雄著作集
タイトル獲得数:48個(うち世界タイトル:3個)
対局日棋戦名年齢コメント
1999年(5期)JT杯優勝57歳
1996年(15期)NEC杯戦優勝54歳
1994年(32期)十段52歳
1994年(6回)TV囲碁アジア選手権戦優勝52歳
1994年(41期)NHK杯戦優勝52歳
1993年(31期)十段51歳
1992年(2期)竜星戦優勝50歳
1992年(5回)富士通杯優勝50歳
1989年(2回)IBM杯優勝47歳
1989年(8期)NEC杯戦優勝47歳
1988年(10期)鶴聖戦優勝46歳
1987年(6期)NEC杯戦優勝45歳
1987年(9期)鶴聖戦優勝45歳
1985年(10期)碁聖43歳6連覇
1984年(9期)碁聖42歳5連覇
1984年(6期)鶴聖戦優勝42歳
1983年(8期)碁聖41歳4連覇
1983年(5期)鶴聖戦優勝41歳
1982年(7期)碁聖40歳3連覇
1981年(19期)十段39歳
1981年(6期)碁聖39歳2連覇
1981年(3期)鶴聖戦優勝39歳
1981年(3期)JAA戦優勝39歳
1980年(18期)十段38歳
1980年(5期)碁聖38歳
1979年(4期)名人37歳
1978年(3期)名人36歳
1978年(3期)碁聖36歳
1977年(9期)早碁選手権戦優勝35歳
1976年(1期)名人34歳
1975年(23期)王座33歳
1975年(14期)旧名人33歳
1975年(22期)NHK杯戦優勝33歳
1974年(6期)早碁選手権戦優勝32歳
1974年(5期)全日本第一位決定戦優勝32歳
1973年(4期)全日本第一位決定戦優勝31歳
1973年(20期)NHK杯戦優勝31歳
1972年(3期)全日本第一位決定戦優勝30歳
1971年(2期)全日本第一位決定戦優勝29歳
1971年(18期)NHK杯戦優勝29歳
1970年(1期)達人杯戦優勝28歳
1970年(1期)全日本第一位決定戦優勝28歳
1969年(8期)十段27歳
1968年(15期)NHK杯戦優勝26歳初出場で優勝
1968年(7期)日本棋院第一位決定戦優勝26歳
1967年(6期)日本棋院第一位決定戦優勝25歳
1965年(9期)首相杯争奪戦優勝23歳
1962年(1期)新鋭選抜トーナメント戦優勝20歳
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写真
【2006年9月4日 朝日新聞「棋士快声」(荒谷一成)】
プロ入りは13歳で、棋士生活は半世紀を超えた。名人3期、碁聖7期などタイトル獲得数48は歴代4位。「私が子供の頃、囲碁の社会的認知度は低く、新米社会人として将来が不安だった記憶がある。ですが、今や囲碁は世界に広がって隔世の感がします」
棋理にかなった無駄のない石運びは「大竹美学」と呼ばれる。「美学」の自己診断を問うと、「幸か不幸か、『美学』に捕らわれちゃって困ることもあるんだよね」と苦笑する。「私はロマン派に属するタイプなので、あまり勝負にこだわらないんだね。形勢が悪い碁をひっくり返さなくっちゃいけない局面で、いろんな図を描いても勝ちが見えないと、もう打つ気にならない。粘る能力がないんです、自分の愚かさだと思いますね」
昨今の日本囲碁界は国際戦での不振や愛好者の減少という難題を抱える。「バブル経済期に働き盛りのサラリーマン層はゴルフや海外旅行などアウトドアの趣味にドット流れたでしょ。私たち囲碁界の人間はその頃、囲碁の魅力を伝え損なった。その性で今『へこみ』の時代にいるんです」
日本棋院の新旧タイトル保持者で作る名棋会(めいきかい)の会長でもある。コミを5目半から6目半に改める際、名棋会として「妥当」の判断を示して方向付けをしたこともある。「囲碁の普及は世界の平和に繋がるし、女性が男性と対等に力を発揮できる。囲碁の利点をもっと発信したいね」

【2006年5月22日 産経新聞「私の修業時代」(榎本弘幸)】
「私の修業時代はただただ恵まれた、に尽きます。木谷(実九段)先生やお母さま(美春夫人)が、まれにみる立派な方でした。政財界など各界のお客さまが絶えず、やんちゃだった私はお相手をさせてもらい、いろいろと教わることが多かった」。昭和26年12月、9歳のときに木谷実九段に入門した。
「以前は先輩たちがたくさんいたのですが、戦争のためにそれが一時切れて、1カ月前に北海道から二つ上の戸沢(昭宣九段)さん、そして私が九州から内弟子に入りました」。まだ豊かな時代ではなかったが、「ニワトリが百羽くらい、ヤギもいて、畑もあった。生活の上で苦しい思いをしたことはなかった」と振り返る。
神奈川県平塚市の木谷九段の自宅は、後に「木谷道場」と呼ばれ、多くの俊英たちが内弟子として修業時代を過ごした。碁の勉強は詰め碁を解いたり、古碁を並べたりだが、「一番の勉強は戸沢さんに打ってもらったこと」。しばらくすると石田芳夫九段ら、弟弟子たちも増え、道場はいつも10人くらいいる環境になった。
当時、日本棋院は高輪(東京都港区)にあり、平塚からは約1時間かかった。対局に負けた帰りは、「駅での待ち時間が長かったのを覚えています」。その長さは自分を見つめ直す反省の時間でもあったという。廊下の掃除の際にも「青春の涙を流したこともあります。今の時代はそうした自分を見つめ直す、がんばる力を生み出す時間を取り上げてしまっている気がします」。
人に対する愛や、相手を尊敬することを、言葉ではなくその環境から教わった。弟子たちは皆、盤上では個性派ぞろい。自分で作品を創るという信念があり、自分がこの世界を動かさなければいけない、という気概があった。「仲間を尊敬することから入って、だけど俺なんだ、という自分を見つける。それから、自分だって、を磨いていった。人まねじゃダメなんです」

【1992年8月2日 読売新聞「顔」(文化部・瀬尾寿男)】
大竹英雄 おおたけ・ひでお 北九州市出身。9歳で上京し木谷実九段の内弟子に。1970年九段。名人(通算4回)のほかタイトル獲得は40回。50歳。
「ちょっとやっては2、3年休むギッコンバッタンで…」 自嘲(じちょう)気味に語る大竹流勝負訓。ことしはその「ちょっとやる」年に当たるのか、勝ちまくり、世界の強豪24選手のトーナメントを制して世界チャンピオンの座に就いた。名人戦も挑戦者まで最短距離にいる。
戦前の予想はいつも優勝候補の3、4番手だった。一発勝負のトーナメントより長期戦向き、国際戦より国内戦向きと自他ともに認めているからだ。「この世界選手権でこんなに頑張れるとは自分でも思わなかった。ことしは50歳を迎える節目だから、考えを改めて勉強しなければと思い続けてはいました。日本のみんなが早く負けてしまって、僕がやらなければの気持ちもありました」
勘の鋭さ、頭の回転の速さは碁界屈指。勝負の最中に、相手が何を考えているか察知できるといわれる。碁の勉強方法も、「これまでは頭の中だけでやっていたんですが、碁盤の前に座って石を並べるように少し変えました」。ゆっくりと手厚く構えて勝ちを急がない棋風。「大竹美学」と評されるが、「僕の碁がナマクラだからニックネームのつけようがなかったんでしょう」と美学を否定する。だがこのナマクラは組んでも離れても筋金入り。若い棋士たちには「基礎ができていない」と厳しい。
「優勝は幸運だった。このツキにまかせて国内タイトルも」早くも次の棋聖戦、名人戦に焦点を合わせ始めた。