陳祖徳
チン・ソトク
陈祖德
Chen Zu de
チェン・ズウドウ
1944年2月19日生れ

上海出身
顧水如、劉棣懐に師事。1962年初来日。1964年日本で五段認定。1982年九段認定(1人目)。中国囲棋協会主席。中国棋院院長。2003年6月12日中国棋院院長辞職。2012年11月1日膵臓癌(すいぞうがん)のため死去。
棋風:中国流布石の創始者。
渾名:
1974年全国個人戦優勝(30歳)
1966年全国個人戦優勝(22歳)
1964年全国個人戦優勝(20歳)
新浪体育 写真
写真(14歳)
対局者左から:陳祖徳(14歳)、林勉
中間左から:顧水如、魏海鴻
後列左から:王幼宸、劉隷杯、汪振雄;(1956年)
【2012年11月2日(金) サーチナ】
中国の囲碁棋士、陳祖徳氏が11月1日、北京市内で膵臓癌(すいぞうがん)のため死去した。68歳だった。陳氏は1963年に杉内雅男九段を破ったことで「日本の九段には勝てないという神話を打破した男」、「自らが不敗神話を築いた中国人棋士」などとして知られていた。中国新聞社が報じた。

陳祖徳氏は1944年、上海市に生まれた。上海市体育委員会および国家体育委員会の囲碁集中養成班に入り、頭角をあらわした。日本にもしばしば“遠征旅行”を行った。1963年には杉内雅男九段に、65年には岩田達明九段を破り、「中国で初めて日本の九段に勝利した男」として有名になった。1981年には自らが日本の「九段」の称号を獲得した。陳祖徳氏の活躍で、日中双方が刺激を受け、両国で改めて布石の研究が盛んになるなど、囲碁界の前進が促されることになった。

1992年から2003年まで中国棋院院長。その後は顧問を務めた。囲碁の文化的側面を強調し、特に「和をもって貴しとなす、人に善を与える文化だ」と主張した。囲碁界の国際的動向については「日中韓の“三国時代”だ。中国と韓国がややリードしているが、日本を軽視してはならない」などと評した。1980年に胃癌を発病。病床であらわした「超越自我(自我を超越する)」は、青少年を励ます名著として評価された。2011年1月に膵臓がんがみつかり、手術を受け療養していたが、11月1日に死去した。

◆解説◆
中国で囲碁は、書画、琴(きん、=古琴)とならび、知識人のたしなみであり、中国文化の粋のひとつと考えられていた。そのため、中華人民共和国成立後、囲碁の分野で日本のレベルが先行していたことは、中国人にとって「喪失感」をともなう厳しい現実だった。陳祖徳氏の日本人九段保持者に対する勝利は、中国の囲碁界に大きな“光明”をもたらした。(編集担当:如月隼人)

【2012年11月12日 中国・人民日報】
日本のプロ棋士九段に初めて勝利した中国棋士の陳祖徳氏は当時、中国で一躍英雄となり、中国社会に空前の「囲碁」ブームを巻き起こした。当時、陳氏は19歳だった。「中国青年報」が伝えた。

 1960年代、囲碁はまだ中日民間交流の「政治的役割」を担っていた。すでにプロ棋士だった陳氏は上海から北京に来て集中訓練合宿に参加しており、訪日中国代表団の中で最も若い団員だった。初めて日本に赴いた時、18歳だった陳氏は緊張のあまり、日本メディアに「入学試験を受ける学生」のようだと形容された。しかし、見かけは柔弱な文学青年風の若者は、北京に来て1年後、北海公園で行われた中日囲碁交流戦で、「棋仙」とうたわれた日本の杉内雅男九段を打ち負かした。まるで豆をばらまいたような布石を打つ日本のベテラン棋士に対し、陳氏は3子(もく)を犠牲にし、さらに6子を捨て、ようやく局面を打開した。9時間にわたる激しい戦いの末、ついに最終的に半子差で勝利した。当時、「人民日報」は「中日囲碁棋士、北京で交流戦を2度行う」と題した平凡な記事を掲載しただけだったが、中国棋士が日本棋士九段を破ったとするニュースが北京から全国へ広まると、このメガネをかけた19歳の青年は一躍、中国人民解放軍の模範兵士とされた「雷鋒」(1940年-1962年)や「鉄人」と呼ばれた模範的石油労働者「王進喜」(1923年-1970年)と並ぶ中国の英雄となり、空前の「囲碁」ブームを巻き起こした。だが実際この試合は、実力差により、中国側が先手となり、日本棋士にハンディキャップを与えた手合割で得た勝利だった。中国棋士はこの20年後に初めて本当の意味で日本を超えることになる。しかし、当時、陳氏の勝利には象徴的な意義が加わり、「陳氏の勝利は中国囲碁が日本囲碁を超える幕開けとなった」と中国著名棋士の聶衛平氏は語る。

 中国の周恩来・初代総理の計らいで、1973年、国家囲碁集中訓練合宿が復活した。陳氏は再び廖承志氏率いる中国代表団員として訪日した。しかし、文化大革命の影響ですでに7年もの間まともに囲碁をさしていなかった陳氏は日本で負け続けた。ある人物が陳氏に「もう試合に出ないほうがいい」と言うと、陳さんは「試合を放棄するプロ棋士なんてどこにいる?棋士は命は要らなくても勝たなくてはならない。勝利が必要なんだ」と答えた。この「棋仙」の人生が最後の秒読み段階に入った時、かつての英雄は呼吸器を装着し、目は涙であふれ、痩せこけて別人のようになっていた。陳氏は今月1日夜、北京協和病院で人生の「棋局」を終えた。4日後、知らせを聞きつけた千人を超える人々が全国各地から集まり追悼会に参加した。陳氏の意思に従い、遺骨は故郷の上海にある黄浦江に撒かれた。追悼会が行われた会場のロビーには、陳氏がスーツを着て微笑んでいる写真が飾られていた。(編集MZ)