囲碁の歴史・出来事
1871年11月29日 碁家四家元、家禄奉還:東京府庁が碁家四家元(本因坊家安井家井上家林家)に対し、家禄奉還を命ずる。
1873年07月02日 本因坊秀和、死亡本因坊秀和(54歳)が死亡。秀悦(六段、24歳)が十五世本因坊となる(坊家初の実子相伝)。
1878年04月01日 新聞に初めて棋譜が載る:「郵便報知」(新聞)に初めて棋譜(中川亀三郎・古橋杵三郎の3月29日対局)が掲載される。
1878年09月05日 初めて碁書の書評載る:「郵便報知」(新聞)の書評欄に碁書の書評が載った。「活碁新編」(横尾謙吉著)を「凡そ囲碁に関係したる曲故を集めて、以って棋道の人事世故に渉る事を述べたる書」と紹介した。
1879年04月20日 「方円社」結成:囲碁結社「方円社」(社長・村瀬秀甫)が東京府神田区相生亭に創設される。棋士や有志たちが設立、社長には当時の第一人者、棋士の村瀬秀甫を迎え、お城碁廃止で崩壊しかけた囲碁界の近代化に貢献した。月に一度の手合を開催、手合日に打たれた碁を厳選して秀甫の解説付きで機関紙を配布。後進の育成のために高額な資金を募金で確保し、若者に勉強の場を与え、田村保寿(後の本因坊秀哉)を生んだ。一般愛好者への指導碁にも力を入れ、段位制に変わる級位制を導入して免状料収入を確立した。革命的経営で事業は飛躍的に発展した。
1879年04月28日 初めての囲碁雑誌創刊方円社から方円社機関誌として初の囲碁月刊誌「囲棋新報」が創刊される。(520号まで続刊) 月に一度の手合日に打たれた碁を厳選して村瀬秀甫の解説付きで棋譜を公開した。スタイルは現在の新聞囲碁欄にそっくり。
1879年09月21日 分裂前の方円社、最後の月例会:9月下旬、方円社分裂。林秀栄は本因坊秀元、井上因碩らと謀り、方円社の社員となっていた門下の段位を剥奪する。黒田俊節、梅生長江らは憤慨して家元に免状を返上。
1879年11月16日 方円社を再組織村瀬秀甫が家元側の退会した方円社を再組織し、神田神保町で発会。

1883年01月12日 方円社、級位制を採用方円社は従来の段位制を廃し、級位制を採用。
1886年07月30日 村瀬秀甫、十八世本因坊となる本因坊秀栄村瀬秀甫の八段を正式に認め、同時に本因坊を譲って土屋秀栄となる。村瀬秀甫が十八世本因坊となり、即日秀栄(五段)に七段を贈る。
1886年10月14日 本因坊秀甫、死亡本因坊秀甫(八段、49歳)が亡くなる。
1886年11月01日 中川亀三郎、方円社長(二代目)となる方円社社長・村瀬秀甫が10月14日に亡くなったのを受け、中川亀三郎が方円社社長(二代目)となる。
1888年01月20日 「囲棋新報」、洋紙活版に:和紙木版の「囲棋新報」が第88号より洋紙活版となる。
1890年01月23日 初めて「次の一手」掲載:「郵便報知」(新聞)、初めて「次の一手」の懸賞を掲載、好評を博す。
1891年11月23日 方円社、田村保寿の退社を社告方円社田村保寿(後の本因坊秀哉)の退社を社告した。
1892年08月13日 本因坊秀栄、囲碁奨励会第一回手合を催す本因坊秀栄は「日本橋倶楽部」で囲碁奨励会第一回手合を催した。
1893年04月01日 方円社、級位制を撤廃方円社は1883年1月12日に採用した級位制を撤廃し、元の段位制に戻した。
1896年08月07日 初めて新聞に囲碁欄創設:「時事新報」(新聞)に囲碁欄が創設された。「碁の栞」第一局として安井算英(六段)、田村保寿(四段)の対局評を掲載(田村先、中押勝ち)。
1899年01月20日 巌埼健造、方円社長(三代目)となる方円社二代目社長の中川亀三郎が引退し、巌埼健造が三代目方円社長となる。
1901年02月04日 「時事新報」「新手合」第一回掲載開始:「時事新報」は「新手合」第一回として石井千治広瀬平治郎戦の掲載を開始した。
1903年10月13日 中川亀三郎、死亡方円社初代社長・中川亀三郎(八段、67歳)が死亡した。
1904年01月13日 安藤如意、『坐隠談叢』刊行:安藤豊次(号は如意)制作、山田光(号は玉川)執筆の『坐隠談叢』(全五巻)が自費出版された。
1905年02月13日 方円社、雁金準一を退社させる方円社雁金準一を退社させた。
1906年06月19日 本因坊秀栄、九段(名人)に昇る本因坊秀栄が九段(名人)に昇った。これに異議を申し立て巌埼健造は争碁を申し込むも、田村保寿を代打ちに立てるとの申し分に、本因坊秀栄は断る。
1907年02月10日 本因坊秀栄、死亡本因坊秀栄(名人、56歳)没。本因坊の名跡を争って、雁金準一(六段)派と田村保寿(七段)派が対立。
1907年06月10日 「敲玉会」、組織雁金準一を首班とする秀栄未亡人派が「敲玉会」を組織した。(1908年5月解散)
1908年02月27日 二十一世本因坊・秀哉誕生田村保寿、本因坊二十一世を襲い、秀哉と名乗る。本因坊秀哉は1914年5月、41歳の時に推されて名人になった。
1918年09月30日 広瀬平治郎、訪中広瀬平治郎顧水如招聘に応じ、中国北京に赴いた。
1918年10月10日 『囲碁評論』創刊:高橋善之助が月刊誌『囲碁評論』を創刊する。そこに野沢竹朝は『評の評』を復活し、本因坊秀哉中川亀三郎の評に是々非々を加えた。また野沢竹朝は人物評論「棋界月旦」で、秀哉の本因坊継承にまつわる裏話を暴露した。
1922年12月03日 裨聖会発会方円社の不満派が反乱し、雁金準一六段、高部道平六段、鈴木為次郎六段、瀬越憲作六段は東京・芝の紅葉館で裨聖会発会式を行なった。
1923年01月21日 中央棋院発会方円社、本因坊両派が合同し、丸ビル7階(方円社新会館)で中央棋院発会式を行なった。(3ヶ月後に分裂)
1923年04月01日 坊社分裂:1月に大同合併して中央棋院を起こした、本因坊両派は分裂、旧方円社グループが「方円社に復帰す」の宣言を行なった。(翌年7月に三派が合同し日本棋院ができる)
1924年03月12日 碁界合同の動き大倉喜七郎が主催し、日本棋院創設に向けて方円社、本因坊両派と裨聖会の3派が帝国ホテルで碁界合同問題の基礎協議をする午餐会を行った。(その後7月17日に日本棋院ができる)
1924年07月17日 「日本棋院」創設方円社、本因坊両派と裨聖会の3派が大同集結して「日本棋院」(総裁・牧野伸顕、副総裁・大倉喜七郎)が創設される。(参加棋士は38人)
1924年10月01日 「棋道」創刊:日本棋院の機関誌「棋道」が創刊される。(1999年7月19日に「囲碁クラブ」と統合され「碁ワールド」に)
1924年10月08日 棋正社創設雁金準一六段、鈴木為次郎六段、高部道平六段、加藤信六段、小野田千代太郎五段は棋正社を組織して、日本棋院を脱退した。日本棋院は5人を除名処分とした。(その後、鈴木為次郎六段、加藤信六段、小野田千代太郎五段は日本棋院に復帰)
1925年04月15日 「爛柯」創刊:「棋道」の姉妹誌として「爛柯」が創刊される。(1928年1月1日、「囲碁倶楽部」と改題)
1926年04月11日 日本棋院会館(麹町)開館:1925年、麹町区永田町2-1に日本棋院会館が建てられ、1926年5月1日から活動を開始した。都心の一等地にあり、「溜池」が通称。大倉財閥の総帥・大倉喜七郎が私財を投じて東京・赤坂溜池に約600平方メートルの土地を確保し、鉄筋2階建て(660平方メートル)の会館を建設。建設費用は当時の金で10万円と言われている。歌舞伎座のような立派な二階建ての建物で、図書室、婦人室、娯楽室があった。1945年5月25日、空襲で使用不能となった。
1926年09月27日 院社対抗戦始まる:日本棋院と棋正社の抗争を煽るかのように読売新聞社主催で院社対抗戦が始まる。第一局は日本棋院・本因坊秀哉名人 対 棋正社・雁金準一七段。(10月18日に雁金の時間切れ負け)
1927年04月06日 大手合・東西対抗開始:大手合が東京でしか行われないことから関西在住の棋士が不満をもっていた。不満解消を狙って日本棋院大手合・東西対抗第一回が開始される。(1929年3月6日、春期から東西制は廃止された)
1928年01月01日 「囲碁倶楽部」創刊:雑誌「爛柯」を「囲碁倶楽部」と改題した。
1928年10月20日 呉清源少年来日呉清源少年が14歳で来日(天津から船で門司港に着く)。創立間もない日本棋院で試験碁を受け飛付き三段を許される。
1928年10月11日 万年コウ事件:1928年秋の大手合で、瀬越憲作七段対高橋重行三段(二子)の対戦で万年コウが発生した。 形勢は大差で瀬越が優勢であったが、高橋はコウをツイでセキにしようとせず、終局まで頑張ったために問題が発生した。あれこれと論争が起こり、大手合が中断するほどの騒動となったが、 結局本因坊秀哉が「両勝ち」の判定をして収まった。この事件が契機となってルールの成文化が叫ばれるようになり、1949年に「日本棋院囲碁規約」が制定されることとなった。
1933年01月15日 囲碁対局、初のラジオ対局鈴木為次郎七段・光原伊太郎六段戦がNHKラジオで5回に渡って放送される。

1933年10月16日 本因坊秀哉対呉清源戦開始本因坊秀哉名人対呉清源五段(五段以上棋士戦の優勝者)の決戦(読売新聞社主催、文章)始まる。打ち掛け14回で1934年1月29日に終局。秀哉名人の252手まで白番2目半勝ち。その後、1938年6月26日から秀哉名人の引退碁が行われた。
1933年11月01日 新布石、創設木谷実五段、呉清源五段が新布石法を創設。安永一氏、「棋道」誌上で新布石法を論ずる。
1935年01月04日 世界初のラジオ対局中継:一日終局のラジオ碁で瀬越憲作七段、鈴木為次郎七段が対局。
1937年02月01日 「囲碁春秋」創刊「囲碁春秋」は日本棋院を辞めた安永一氏が創刊したアマ棋士向けの囲碁専門月刊誌。1974年まで続いた。
1938年06月26日 本因坊秀哉引退碁始まる本因坊秀哉名人対木谷実七段の名人引退碁始まる。この対局で初めて「封じ手」制度が採用された。対局場所を箱根、伊東に移し、途中で名人の病気が悪化して3ヶ月の中断があったが12月4日に終局。木谷七段の5目勝ち。観戦記者は川端康成、解説は呉清源六段。川端康成はこの観戦記を題材にして小説「名人」を書いた。
1939年06月12日 「本因坊名跡争奪全日本選手権手合」開始:毎日新聞が本因坊名跡を買取り、日本棋院に寄贈。日本初の新聞社主催碁として「本因坊名跡争奪全日本選手権手合」が創設され、毎日新聞に棋譜が掲載された。
1939年09月28日 「木谷實・呉清源打込み十番碁」開始:読売新聞は毎日新聞の「本因坊名跡争奪全日本選手権手合」に対抗する形で「呉清源打込み十番碁」を開始した。呉清源七段と木谷実七段の第1局は鎌倉建長寺で行われた。持ち時間は13時間。対局場は主に鎌倉だったので「鎌倉十番碁」と呼ばれ、1941年6月6日に終了した。
1940年01月18日 二十一世本因坊秀哉死去(享年67歳)
1941年06月06日 「木谷實・呉清源打込み十番碁」終了:読売新聞は毎日新聞の「本因坊名跡争奪全日本選手権手合」に対抗する形で「呉清源打込み十番碁」を開始した。呉清源七段と木谷実七段の第1局は鎌倉建長寺で1939年9月28日から行われた。持ち時間は13時間。対局場は主に鎌倉だったので「鎌倉十番碁」と呼ばれ、第10局まで打たれ呉清源の6勝4敗で第6局で木谷実の先相先の手合となり、1941年6月6日に終了した。
1941年07月18日 第1期本因坊戦終了「本因坊継承全日本選手権優勝戦」関山利一六段が加藤信七段を破り優勝した。関山利一は第一期本因坊に推薦され、利仙と号した。
1941年08月07日 「呉清源・雁金準一打込み十番碁」開始:読売新聞は「呉清源打込み十番碁」の第2弾として呉清源七段と雁金準一七段の打込み十番碁を開始した。第1局は鎌倉腰越の読売海道場で行われた。持ち時間は13時間。第5局まで打たれ呉清源の4勝1敗と雁金準一が打ち込まれ、1942年5月4日に第5局で終了した。
1942年12月27日 「呉清源・藤沢庫之助打込み十番碁」開始:読売新聞は「呉清源打込み十番碁」の第3弾として呉清源七段と藤沢庫之助八段の打込み十番碁を開始した。第1局は鎌倉腰越の読売海海道場で行われた。持ち時間は13時間。第10局まで打たれ呉清源の6勝4敗で手合は変わらず、1944年9月14日の新聞掲載で終了した。
1944年04月25日 「囲碁クラブ」を「棋道」と合併:戦争で用紙事情が悪化し、日本棋院は「囲碁クラブ」を「棋道」と合併した。(戦後、再び分離した)
1944年11月30日 「棋道」休刊:戦争のため、日本棋院は「棋道」を休刊した。
1945年05月25日 日本棋院会館(溜池)焼失:東京大空襲で日本棋院会館(溜池)が焼失。事務所を岩本薫七段宅(目黒区柿の木坂)に移した。
1945年08月06日 原爆下の対局:第3期本因坊戦は橋本昭宇本因坊対岩本薫七段の六番勝負(コミなし)。第1局は7月23日に広島市中島で行われ岩本が勝ち。第2局も同じ場所で行われる予定だったが空襲が激化して危険であるということから約10キロ離れた五日市町に移された。3日目の8月6日に原爆の爆風を受け碁石が飛び散ったが対局を続行し正午ごろに終了した(原爆下の対局)。橋本が勝った。第3局は11月に再開され橋本の勝ち。第4局は岩本、第5局は橋本、第6局は岩本の勝ち。3勝3敗で決着がつかなかったため規約により本因坊位を日本棋院預かりとて一時中止し1946年に再開された。
1946年04月24日 大手合復活:日本棋院会館(溜池)焼失で中断されていた大手合が1年ぶりに神田「お座敷本郷」で再開された。
1946年08月25日 「棋道」復刊:「棋道」復刊第一号(9月号)が博文館より刊行された。
1946年08月28日 「呉清源・橋本宇太郎打込み十番碁」開始:読売新聞は「呉清源打込み十番碁」の第4弾として呉清源七段と橋本宇太郎八段の打込み十番碁を開始した。第1局は東京世田谷区の若尾鴻太郎邸で行われた。持ち時間は13時間。第10局まで打たれ呉清源の6勝3敗1ジゴで第8局で橋本宇太郎の先相先の手合となり、1948年1月28日の新聞掲載で終了した。
1947年05月18日 「囲碁新社」創設:旧態依然の日本棋院に抗議して前田陳爾七段、坂田栄男七段、梶原武雄五段、山部俊郎四段、桑原宗久三段、塩入逸造三段、児玉国男三段、石毛壽久夫二段の8人が離反、囲碁新社を創設した。日本棋院は8人を除名した。(1949年3月に全員復帰)
1948年04月03日 日本棋院新会館(高輪)開館:日本棋院新会館(芝高輪北町43)の開館式が行われた。高輪の棋院会館は1971年11月22日に日本棋院市ヶ谷本館ができるまで使われた。
1948年06月06日 院生制度誕生:日本棋院に院生制度ができ、第1回の院生研究会が行われた。
1948年06月27日 関西棋院創立発会式:関西棋院創立発会式が行われ、関西の新囲碁会館(大阪市天王寺区細工谷町)がオープンした。理事長に大屋晋三(帝人社長)、副理事長に橋本宇太郎。他に鯛中新、窪内秀知ら合計27人。2ヵ月後には関山利仙(第1期本因坊)、翌年には半田早巳(道玄)も加わった。
1948年07月07日 「呉清源・岩本薫打込み十番碁」開始:読売新聞は「呉清源打込み十番碁」の第5弾として呉清源七段と岩本薫七段の打込み十番碁を開始した。第1局は東京小石川の紅葉で行われた。持ち時間は13時間。第10局まで打たれ呉清源の7勝2敗1ジゴで第6局で岩本薫の先相先の手合となり、1949年2月24日に終了した。
1949年03月30日 囲碁新社の棋士復帰:1947年5月18日に囲碁新社を創立して日本棋院を離脱した8人の棋士(前田陳爾七段、坂田栄男七段、梶原武雄五段、山部俊郎四段、桑原宗久三段、塩入逸造三段、児玉国男三段、石毛壽久夫二段)が日本棋院に復帰した。
1949年05月19日 藤沢庫之助八段、初の九段に藤沢庫之助八段(31歳)が春の大手合で前田陳爾七段に勝ち、昇段点に達したことから九段に昇段した。大手合による初の九段昇段者となった。
1949年10月02日 日本棋院、「囲碁規約」(10章70条で構成)発表:日本棋院は囲碁規約を発表した。
1949年10月02日 日本棋院、「名人位に関する規定」発表:日本棋院は大手合で初の九段、藤沢庫之助九段が誕生したことを受け、「名人」の定義を発表した。(1)九段であること(2)18局平均65点取り(3)本因坊戦で優勝、の三条件を満たしたら名人選考委員会にかけるというもの。(名人戦創設前のルール)
1949年11月18日 呉清源、名誉客員に:日本棋院は呉清源八段を名誉客員にすると発表した。(呉清源八段は1947年8月に本人に無断で日本棋院を除籍されていた)
1950年02月15日 日本棋院、呉清源八段に九段贈呈決定:日本棋院は理事会で名誉客員の呉清源八段に九段を贈呈することを正式に決定した。(贈呈式は1950年2月25日に行われた)
1950年02月25日 呉清源八段、九段に藤沢庫之助九段の誕生を受け、日本棋院は実質碁界NO1実力者の呉清源八段に九段を贈呈した。日本棋院で2人目の九段になった。
1950年05月10日 喜多文子六段死亡(七段追贈)
1950年09月02日 関西棋院、独自の免状発行権を主張:関西棋院が独自の免状発行権の行使と本因坊戦と大手合に関西棋院棋士の参加を日本棋院に申し入れた。これが関西棋院の事実上の独立宣言とされている。
1950年09月13日 関西棋院独立決定:日本棋院新会館(高輪)創設の資金集めをきっかけに従来から東京中心の棋院運営に不満を持っていた関西棋院の棋士が橋本宇太郎八段を頭にして、関西棋院独立を宣言した。
1950年12月20日 関西棋院設立:関西棋院の設立式が行われた。
1951年02月01日 月刊「囲碁」創刊:誠文堂新光社より月刊「囲碁」が創刊された。
1951年08月08日 日本棋院東海本部、差別待遇の廃止要求:日本棋院東海本部は8月8日名古屋市中区酒井六段宅で棋士会を開き、差別待遇廃止要求案を決議し、日本棋院足立理事長宛に8月20日までの期限付きで回答を求めた。この要求が受け入れられない場合は日本棋院を離脱、関西棋院に合流するとした。東海本部所属棋士は六段1人、五段2人、四段8人、三段2人。
1952年02月08日 アマに5段許可:従来アマの最高位は4段までだったが、4段が増えたので最高位5段に踏み切った。
1952年07月14日 加藤信八段死亡加藤信八段死亡。
1952年08月03日 呉清源、台湾を訪問呉清源は台湾を訪問。大国手の称号を受けた。そのとき8月3日に林海峰少年(10歳)と六子局で対局した。(呉清源の1目勝ち)
1952年10月29日 林海峰少年、来日:1952年8月3日に呉清源の指導碁を受けた林海峰少年(10歳)が来日した。
1953年10月01日 NHK囲碁トーナメント戦始まる:NHKテレビ開局に合わせてスタートした。『囲碁の時間』の後に放映される。当初はラジオ放送であった。テレビ対局になったのは1962年10月7日から。
1953年11月12日 橋本宇太郎八段、第1期王座に:第1期王座戦決勝戦で橋本宇太郎八段が前田陳爾七段を下し優勝し、第1期王座になった。
1953年11月30日 藤沢庫之助九段、日本棋院脱退:理事会に列席中の藤沢庫之助九段は「日本棋院の運営方針に自分は不満な点があるので脱退したい」と申し出て退席した。藤沢九段は昭和26年10月以来、大手合と本因坊戦に出場せず、本因坊戦最終予選出場を常務理事会で否決されていた。(1959年2月6日復帰)
1954年01月08日 韓国棋院、設立:1943年、日本から帰国した趙南哲は1945年11月1日に漢城棋院を設立。1949年に大韓棋院に名前を変え、1954年1月8日に韓国棋院を設立した。
1954年01月16日 橋本宇太郎八段、九段に橋本宇太郎八段が関西棋院の大手合成績により九段に昇段した。関西棋院では初めての九段、日本棋院と合わせると3人目の九段になった。
1954年01月30日 島村利博八段、第1期NHK杯者に:決勝戦で島村利博八段は高川秀格七段を下し優勝し、第1期NHK杯者になった。
1954年05月01日 高川格八段、第1期日本棋院選手権戦者に:決勝戦で高川秀格八段が篠原正美七段を下し優勝し、第1期日本棋院選手権戦者(天元戦の前身)になった。
1954年05月10日 「囲碁クラブ」復刊第一号(6月号)を刊行
1954年11月23日 日本棋院中央会館、開館:日本棋院中央会館(現八重洲囲碁センター)の開館式が行われた。初代館長は岩本薫八段。
1954年12月13日 坂田栄男八段、九段に坂田栄男八段は秋の大手合で昇段点に達し、日本棋院で3人目の九段に昇段した。関西棋院と合わせると4人目。
1954年12月28日 瀬越憲作八段、名誉九段に:日本棋院、名誉九段制導入。瀬越憲作八段が初の名誉九段に。
1955年01月13日 坂田栄男九段、第1期最高位に坂田栄男九段は九人のリーグ戦で6勝2敗で優勝し、第1期最高位になった。
1955年09月05日 韓国棋院創立:1955年9月5日に正式に韓国棋院が創立された。
1955年12月19日 日本棋院創立30周年:日本棋院創立30周年式典が行われた。
1956年11月12日 坂田栄男九段、第1期早碁名人に:第1期早碁名人(十段戦の前身)決勝戦で坂田栄男九段は曲励起七段を下し優勝した。
1956年12月14日 木谷実八段、九段に:最高位戦(12月12.13日)で木谷実八段は前田陳爾八段を破り、40局平均67点の昇段点を確保、九段に昇段。呉清源は日本棋院に所属していないので日本棋院3人目(全体で5人目)の九段になる。
1957年01月04日 TBSテレビ、新春囲碁対戦放映:TBSテレビが新春囲碁対戦と題し呉九段、高川秀格九段も参加する一時間の特別番組を放送。
1957年03月08日 木谷実九段、第1期争奪囲碁選手権者に:第1期争奪囲碁選手権決勝戦で木谷実九段は林有太郎七段を下し優勝した。
1957年04月12日 囲碁親善使節団、訪台:日中友好協会の訪中要請を断り、瀬越憲作名誉九段はじめ4人の棋士、3人の役員が台湾を訪問(4月19日に帰国)
1957年07月28日 ヨーロッパ碁コングレス、始まる:西独のクックスハーヘンで第1回ヨーロッパ碁コングレスが始まった。
1957年10月17日 藤沢秀行七段、第1期首相杯争奪戦優勝:第1期首相杯争奪戦決勝戦で藤沢秀行七段は大平修三七段を下して、優勝した。
1958年05月01日 呉清源九段、第1期日本最強決定戦者に:第1期日本最強決定戦(旧名人戦の前身)で呉清源九段は6人のリーグ戦で8勝2敗で優勝した。
1958年11月03日 瀬越憲作名誉九段、紫綬褒章受章

1959年01月10日 本因坊三番碁で終局問題発生:毎日新聞主催、呉、本因坊三番碁第2局で終局手入れの問題が起った。呉清源九段の譲歩でその場は収まったが、日本棋院は規約改善に努力し円満解決をはかった。
1959年02月06日 藤沢朋斎九段、日本棋院に復帰:東京品川の日本棋院で開かれた棋士総会でかねて日本棋院に復帰を希望していた藤沢朋斎九段の復帰が満場一致で可決、正式に復帰が決まった。藤沢朋斎九段は昭和28年(1953年)棋院の運営に不満があるとの理由で同院を脱退、それ以来、個人の資格で本因坊戦その他の棋戦に出場していたが、棋院の棋士ではないので大手合には参加していなかった。今後は大手合にも出場することになる。
1959年02月06日 雁金準一名誉九段(瓊韻社)死亡瓊韻社(けいいんしゃ)雁金準一名誉九段死亡。享年80歳。日本棋院名誉九段を追贈。
1959年03月19日 杉内雅男八段、九段に杉内雅男八段は最高位戦(3月18.19日)で中村勇太郎七段に勝ち九段に昇段。日本棋院4人目(全体で9人目)の九段。
1959年08月13日 日本棋院中部総本部会館の会館式が行われる:日本棋院中部総本部会館は1973年12月22日に新会館ができるまで使われた。
1959年09月01日 日本棋院有段者名簿を初めて発行(有段者総数約4万人)
1959年09月29日 藤沢秀行八段、第1期日本棋院第一位戦優勝:第1期日本棋院第一位戦決勝3番勝負で藤沢秀行八段は宮下秀洋八段を2勝1敗で下して、優勝した。
1960年05月30日 囲碁親善使節団、訪中:中国政府の招待で瀬越憲作名誉九段を団長に7人の棋士が初めて中国を訪問した。結果は日本チームの26勝2敗1ジゴだった。(6月22日に帰国)
1960年06月30日 宮下秀洋八段、九段に:最高位戦(6月29.30日)で宮下秀洋八段は藤沢朋斎九段に勝ち、九段に昇段。日本棋院5人目。(全体で10人目)
1960年10月13日 高川格八段、九段に:最高位戦(10月12.13日)で高川秀格八段が杉内雅男九段に勝ち九段に昇段。日本棋院6人目。(全体で11人目)
1960年10月13日 島村俊宏八段、九段に:名古屋で行なわれた大手合(10月12.13日)で曲励起八段に勝ち九段に昇段。日本棋院7人目。(全体で12人目)
1960年10月20日 窪内秀知八段、九段に:関西棋院で5人目。(全体で13人目)
1960年11月03日 鈴木為次郎名誉九段、紫綬褒章受章
1960年11月20日 鈴木為次郎名誉九段、死亡
1961年01月18日 旧名人戦が創設される:読売新聞が棋譜を掲載。日本棋院では、物価上昇に比べて棋戦契約金が増えず、また棋士の増加もあって財政難となりつつあった。1960年に渉外担当理事となった藤沢秀行は、この解決策として名人戦創設を計画する。当初朝日新聞に提案したが交渉はうまくいかず、次いで読売新聞と交渉して契約金2500万円で話をまとめ、棋士総会でも70対4の圧倒的多数で承認された。こうして関西棋院、呉清源も参加する名人戦が創設される。しかし朝日新聞はこれを機に大手合、最高位決定戦のスポンサーを降りることとなった。名人戦スタート当初には「十番碁の覇者である呉清源を初代名人に推戴して始めるべきだ」との声もあったが、結局呉を含めた当時のトップ棋士13名による大型リーグ戦で第1期名人を決定することとなった。
1961年02月21日 英文月刊誌「Monthly Go Review」創刊:中央会館より英文月刊囲碁誌が創刊された
1961年03月25日 本田幸子三段、本田輝子三段、木谷礼子二段、渡米:本田幸子三段、本田輝子三段、木谷礼子二段の3人の女流棋士が囲碁使節として3ヶ月間渡米し、大歓迎を受けた。
1961年04月29日 最初のテレビ対局が放送される:日本初のテレビ対局は36年4月29日の国民の祝日に放送された。プロアマ本因坊戦(高川秀格・村上文祥)の二子局で、解説・村島誼紀、聞き手・林裕、棋譜読み上げ・大石久子だった。解説者は棋譜読み上げの声を聞いて、磁気利用の大碁盤に石を並べる。持ち時間は25分、1時間にまとめられた。放送時間中に114手まで進み、終局後2分間の解説が付け加えられた。
1961年09月13日 囲碁親善使節団、訪中:日本棋院の有光次郎理事長をはじめとする日本囲碁代表団が2回目の訪中をした。棋士は5人(曲励起八段、小山靖男七段、伊藤友恵五段、菊池康郎、安藤英雄)が同行し、結果は日本チームの34勝5敗1ジゴだった。
1962年07月08日 中華人民共和国より囲碁代表団(団長・李夢華)が初来日国家体育運動委員会・李夢華副主任を団長とし、劉棣懐、孫平化を副団長、過タ生(55)、黄永吉、張福田、陳錫明、陳祖徳(18)の5選手が初めて来日した。結果は日本チームの23勝12敗だった。
1962年08月01日 趙治勲少年、来日:木谷道場入門のため、趙治勲(6歳)が韓国から来日。7月に6歳になったばかりで碁を覚えてわずか1年余りの少年だが、すでにアマチュア高段者並みの実力になった天才。
1962年08月02日 木谷実九段一門の100段突破木谷実九段一門の百段突破記念大会が東京大手町の産経ホールで行われた。セレモニーに引き続いてアトラクションとして木谷道場に入門するため韓国から来た趙治勲少年(6歳)と台湾から囲碁留学して日本棋院棋士となった林海峰(20歳)で五子局で対局した。(趙治勲の勝ち)
1962年08月06日 藤沢秀行八段、第1期名人に:第1期旧名人戦は藤沢秀行八段が9勝3敗で1位となり、第1期名人に就任。
1962年10月07日 NHK杯戦、テレビ対局始まる
1962年11月08日 橋本宇太郎九段、第1期十段に:第1期十段戦決勝戦で橋本宇太郎九段が半田道玄九段を下し優勝した。
1963年02月03日 大倉喜七郎日本棋院名誉総裁、逝去:日本棋院名誉総裁の大倉喜七郎氏が死亡した。大倉喜七郎氏は大正13年の日本棋院創設に尽力し、その後も物心両面で絶大な援助を行なった。
1963年03月06日 日本棋院、秒読みに新方式:日本棋院では昨年末から残り時間1分以降の秒読み方式を改めた。これまでは「30秒、40秒、50秒、55秒、58秒」と連呼して、それでも打たないときは「打ってください」と念を押していたが、今度は50秒から1,2,3と数え、10までに打たないと、その後時間切れ負けになる。この方式になってから、すでに2局の"時間切れ負け" があった。
1963年05月09日 佐藤直男八段、九段に:佐藤直男八段が九段に昇段した。関西棋院で6人目。(全体で14人目)
1963年05月09日 前田陳爾八段(55歳)、九段に前田陳爾八段(55歳)が九段に昇段した。日本棋院で8人目。(全体で15人目)
1963年05月09日 山部俊郎八段(36歳)、九段に山部俊郎八段(36歳)が九段に昇段した。日本棋院で9人目。(全体で16人目)
1963年07月17日 故大倉喜七郎氏に「名誉九段」贈呈:日本棋院は1963年2月3日に亡くなった大倉喜七郎日本棋院名誉総裁に「名誉九段」を贈呈した。大倉喜七郎氏は大正13年の日本棋院創設に尽力し、その後も物心両面で絶大な援助を行なった。
1963年09月13日 日本囲碁代表団、訪中:日本棋院の坂田栄男九段を代表とする日本囲碁代表団が3回目の訪中をした。棋士は5人(杉内雅男九段、宮本直毅八段、桑原宗久七段、田岡敬一アマ)が同行し、結果は日本チームの33勝19敗1ジゴだった。
1963年09月27日 中国棋士、日本プロ九段を初めて破る:中国棋士・陳祖徳が杉内雅男九段を破り、初めて中国棋士が日本のプロ九段を破った。
1963年09月30日 坂田栄男、史上初の名人本因坊に:第2期旧名人戦挑戦手合第7局で挑戦者の坂田栄男九段(本因坊)が名人の藤沢秀行八段を破り、史上初の名人本因坊になった。
1963年10月01日 第1回International Amatur Go Tournament(中央会館主催)開催:参加国および順位は日本、大韓民国、中華民国、西ドイツ、アメリカ、ユーゴスラビア、オランダ、オーストリア、イギリス
1963年10月03日 周恩来総理、陳毅副総理、日本囲碁代表団と面会:周恩来総理、陳毅副総理が中国を訪問していた日本囲碁代表団と面会した。写真は前列左から:田岡敬一アマ七段(日本代表団選手)桑原宗久七段(日本代表団選手)西園寺公一(日中友好交流民間大使)宮本直毅八段(日本代表団選手)陳毅副総理 杉内雅男九段(団長) 周恩来総理 岩村三千夫(日中友好協会秘書長)村上文祥アマ七段(日本代表団選手)川上操六、後列左から:陳先(時任国家体委群体司司長)過タ生(中国チーム選手)江培柱(外交部日本語通訳)劉棣懐(中国チーム選手)陳祖徳(中国チーム選手)呉淞笙(中国チーム選手)羅建文(中国チーム選手)黄永吉(中国チーム選手)朱金兆(中国チーム選手)沈果孫(中国チーム選手)李政洛(時任中国国家囲碁チーム領チーム)
1963年10月18日 藤沢秀行八段、九段に藤沢秀行八段(38歳)が九段に。日本棋院で10人目。(全体で17人目)
1964年01月21日 第1回秀哉賞、坂田栄男本因坊・名人に:囲碁「秀哉(しゅうさい)賞」の第1回表彰式が1月21日正午から東京丸の内の日本棋院中央会館で行われ、坂田栄男本因坊・名人が受賞した。「秀哉賞」は故21世本因坊秀哉名人を記念する賞で日本棋院の秀哉賞選考委員会で毎年1回、前年に最優秀の成績を上げた専門棋士に贈る。
1964年04月11日 坂田栄男九段、第1期プロ十傑戦者に:決勝戦で坂田栄男九段が高川秀格九段を下し優勝した。
1964年07月25日 藤沢教室、創立藤沢秀行九段は阿佐ヶ谷の自宅で、茅野直彦、当時十代であった林海峰、大竹英雄、工藤紀夫、高木祥一、小島高穂ら十数人による月2回の研究会=藤沢教室を始めた。
1964年12月06日 小川誠子さん13歳で優勝:名古屋市東区高岳町の日本棋院中部総本部で開かれた第3回朝日女流アマ囲碁のつどいA組戦(5級以上)で13歳の中学女生徒が見事、優勝。愛知、岐阜、三重県下から参加した50人余の女性囲碁ファンを驚かせた。名古屋市中村区鴨附町1-11、聖霊中学2年生の小川誠子さんで、お父さんの貞夫さん(43)=東海銀行本部勤務=は5段、小学1年生頃から囲碁を覚えだし、3年生のことから指導を受けたそうで、今ではお父さんと互角で勝ったり負けたり、アマ3段の腕前。優勝は嬉しそうで、大きな目をくりくりさせながら「これからもうんと囲碁の勉強をして本格的な女流棋士になりたい」と言っていた。
1965年04月14日 朝日新聞に囲碁将棋コラム「盤側」が初登場
1965年09月19日 林海峰八段、名人位獲得:本因坊名人・坂田栄男九段(45)と挑戦者・林海峰八段(23)との第4期名人戦7番勝負第6局は9月18、19日両日、石川県七尾市の和倉温泉「加賀屋旅館」で行われ、19日午後6時36分、林八段が224手で黒番12目勝ちし、4勝2敗で坂田名人を退けて名人位を獲得した。林八段は第1局を失った後、第2、第3、第4局を立て続けに勝って名人をカド番に追い込んだ。第5局は坂田名人が一矢を報いたが、第6局では黒番を持った林八段は好調の波に乗り、必死に名人防衛を努める坂田名人を振り切った。
1965年11月05日 木谷実九段、紫綬褒章受章
1965年11月14日 第1回全国高校囲碁選手権大会開催:34校74人が参加して宮崎商高・上村陽生君(現プロ棋士)が優勝
1965年12月03日 日本棋院、伊予本桃市六段を除名:日本棋院は12月3日評議会を開き、帰属問題でもめている中央会館(八重洲口)の常任委員・伊予本桃市六段を除名処分にした。理由は理事会、評議会に従わず、独断の行為があったこと、同会館を日本棋院とは別個の団体として東京地裁の仮処分を受けたことの2点である。
1966年05月07日 瀬越憲作名誉九段、勲二等瑞宝章受章
1966年06月10日 第1回日中囲碁対抗戦、開始:第1回日中囲碁対抗戦のため中国囲碁代表団来日(結果は日本の19勝6敗)
1967年04月26日 大竹英雄七段、初タイトル獲得:第6期日本棋院第一位決定戦で大竹英雄七段(26)が坂田栄男九段を破り、初タイトルを獲得した。
1967年10月19日 藤沢秀行九段(42)、初の王座に:第15期王座戦藤沢秀行九段(42)が橋本昌二九段を破り、初めて王座タイトルを獲得した。
1967年06月01日 岩本薫八段、九段に岩本薫八段が65歳で九段に昇段した。
1967年11月03日 岩本薫九段、紫綬褒章受章
1968年04月24日 日本棋院関西総本部の大阪囲碁会館(大阪市北区)開設
1968年10月06日 藤沢秀行九段(43)、第1期早碁選手権戦で優勝藤沢秀行九段(43)が藤沢朋斎九段を破り、第1期早碁選手権者に。
1969年01月09日 大平修三九段が日本棋院選手権四連覇大平修三九段が第16期日本棋院選手権で挑戦者・宮下秀洋九段を降し、四連覇を達成した。
1969年04月17日 加藤正夫五段、22歳で本因坊戦挑戦者に加藤正夫五段が22歳で本因坊戦挑戦者になり、史上最低段の挑戦者となった。(2001年4月5日に張栩六段が21歳で挑戦者にとなり、記録を更新)
1969年06月01日 石田芳夫六段、第1回新鋭トーナメント戦優勝:第1回新鋭トーナメント戦で石田芳夫六段(20)が石井邦生八段を下し、優勝した。
1969年07月25日 第2次藤沢教室、始まる藤沢秀行九段が不動産業のために代々木に開いた事務所に、林海峰、゙薫鉉のほかに当時四谷にあった木谷道場の石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、趙治勲ら若手棋士が集まって研究会を始めた。(事務所を閉じる1978年まで続いた)
1969年11月21日 橋本宇太郎九段、紫綬褒章受章
1969年12月24日 本田幸子四段が女流選手権初優勝:第16期女流選手権戦で本田幸子四段が初の女流選手権を獲得。
1970年01月15日 関山利一九段、逝去
1970年03月05日 大竹英雄七段、第1期全日本第一位決定戦で優勝大竹英雄七段が第1期全日本第一位決定戦で優勝した。
1970年03月09日 木谷実九段一門の200段突破:「木谷一門200段突破記念大会」が東京大手町の産経ホールで行われた。
1970年11月20日 石田芳夫七段、大手合30連勝を記録:石田芳夫七段(22)が大手合で30連勝を記録した。
1970年12月13日 大竹英雄七段(28)、第1回達人杯争奪戦(近畿テレビ)で優勝大竹英雄七段(28)が第1回達人杯争奪戦(近畿テレビ)で優勝した。
1971年02月11日 橋本宇太郎九段、63歳で十段に:第9期十段戦橋本宇太郎九段が大竹英雄九段を破り、63歳で十段となる。
1971年06月22日 石田芳夫七段、史上最年少で本因坊に:第26期本因坊戦で石田芳夫七段(22)が林海峰九段を破り、史上最年少で本因坊になった。
1971年06月29日 石田芳夫七段、タイトル戦史上初の反則負け:第8期プロ十傑戦決勝5番勝負第3局で2連勝の石田芳夫七段は梶原武雄九段のコウ取りにコウダテを打たずにコウを取り返して反則負けとなった。反則負けはタイトル戦史上初めて。
1971年09月06日 囲碁普及研修会(島村俊宏九段主宰)が名古屋で誕生
1971年11月07日 呉清源九段、囲碁普及のために3週間渡米呉清源九段は囲碁普及のために3週間渡米した。
1971年11月22日 日本棋院市ヶ谷本館落成:日本棋院市ヶ谷本館(千代田区五番町)の竣工式が行なわれた。
1972年07月27日 瀬越憲作名誉九段、逝去瀬越憲作名誉九段が亡くなった。老醜を厭っての自決だった。
1973年04月07日 日本テレビ系列で「楽しい囲碁道場」放送開始:日本テレビ系列で「楽しい囲碁道場」が放送開始され、同時に女流名人戦が始まった。
1973年04月16日 中日友好協会訪日代表団団員として陳祖徳氏来日:文化大革命以後、途絶えていた日中囲碁交流が再開され陳祖徳が再度来日した。
1973年05月10日 岩本薫九段、勲三等瑞宝章受章
1973年06月25日 趙治勲五段、棋戦史上最年少(17歳0ヶ月)で優勝:第5期新鋭トーナメント戦で趙治勲五段が史上最年少(17歳0ヶ月)で優勝した。この記録は2005年10月、井山裕太四段(16歳4カ月)が阿含桐山杯で優勝して破られた。
1973年07月01日 訪韓囲碁代表団(団長・榊原龍次氏)出発(結果は日本の12勝5敗)
1973年07月20日 訪中囲碁代表団(団長・有光次郎氏)出発(結果は日本の40勝14敗2ジゴ)
1973年09月27日 訪中囲碁代表団、陳毅中国副総理に日本棋院名誉7段位、関西棋院7段位を贈呈
1973年10月20日 林海峰九段、名人位を防衛:第12期名人戦で林海峰九段は石田芳夫七段に3連敗後4連勝して名人位を防衛した。
1973年10月01日 国際トーナメント戦を開催:日本棋院はアメリカ、オーストリア、台湾、イギリス、西ドイツ、韓国、オランダ、ユーゴスラビアから各2人の選手を招き、日本のアマ代表を加えて国際トーナメント戦を開催
1973年11月03日 長谷川章名誉八段、勲四等旭日賞受賞
1973年12月22日 日本棋院中部総本部会館完成:中部総本部会館(名古屋市東区橦木町(シュモクチョウ))の開館式が行なわれる
1974年04月13日 半田道玄九段、逝去
1974年07月17日 日本棋院創立50周年式典開催
1974年10月24日 石田芳夫八段、史上3人目の名人本因坊に:第13期名人戦で石田芳夫八段は林海峰九段を破り、坂田栄男九段、林海峰九段に続く3人目の名人本因坊になった。
1974年11月18日 高川秀格九段、紫綬褒章受章
1974年12月03日 日本棋院、読売新聞社に名人戦契約打ち切りを通告(名人戦騒動起こる)
1975年05月01日 趙治勲六段、新聞棋戦史上最年少(18歳)で優勝:第12期プロ十傑戦で趙治勲六段が史上最年少(18歳10カ月)で優勝した。プロ十傑戦はこの期で終了した。
1975年08月11日 読売新聞社、日本棋院を提訴:読売新聞社は名人戦契約問題(名人戦騒動)で名人戦棋譜掲載権確認などを求め東京地裁に日本棋院を提訴(1975年12月10日和解)。
1975年12月19日 木谷実九段、逝去(享年66歳)
1975年12月23日 日本棋院、名人戦騒動で読売新聞社と和解:新名人戦は朝日新聞、最高棋士決定・棋聖戦は読売新聞で決着。
1976年01月08日 藤沢秀行九段、第1期天元に:第1期天元戦藤沢秀行九段(50)が大平修三九段を3勝1敗で下し、初の天元位に。
1976年02月05日 趙治勲七段、八強争奪戦で優勝:八強争奪戦で趙治勲七段が優勝した。
1976年05月01日 徐奉洙韓国名人、初来日
1976年05月06日 坂田栄男九段、700勝達成坂田栄男九段が史上初の700勝を達成した。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1976年07月16日 武宮正樹九段、本因坊位獲得:第31期本因坊戦で武宮正樹九段は石田芳夫九段を4勝1敗で倒し、本因坊位獲得、秀樹と号す。
1976年08月08日 宮下秀洋九段、逝去
1977年02月08日 藤沢秀行九段、第1期棋聖に藤沢秀行九段(51)が橋本宇太郎九段を4勝1敗で下し、初の棋聖に。
1977年06月29日 小川誠子四段結婚:小川誠子四段が俳優・山本圭さんと結婚。媒酌人は仲代達矢夫妻
1977年06月30日 加藤正夫八段、本因坊位獲得:第32期本因坊戦で加藤正夫八段は武宮正樹八段を4勝1敗で倒し、本因坊位獲得、剣正と号す。
1977年09月01日 Mレドモンド君、米人院生第1号に:Mレドモンド君(14)が米人として初の院生になった。
1977年11月03日 橋本宇太郎九段、勲三等旭日中緩章受賞
1977年11月15日 「週刊碁」創刊:日本棋院より囲碁新聞が発行される
1977年11月16日 工藤紀夫九段、初タイトル獲得:第25期王座戦工藤紀夫九段は趙治勲七段を2勝0敗で下し、7大棋戦で初タイトルを獲得した。
1978年02月14日 初の欧米人プロ棋士誕生:米国人のJカーウィン氏が日本棋院で初の欧米人プロ棋士となった。
1978年06月27日 坂田栄男九段、日本棋院理事長に:役員改選で坂田栄男九段が理事長に就任した。
1978年09月22日 囲碁親善使節団、訪ソ連邦
1978年10月07日 日本航空杯争奪「鶴聖戦」リーグ戦始まる:鶴聖戦は当初は5人制のリーグ戦だった。1986年(第8期)からトーナメント方式に
1979年02月17日 坂田栄男九段、第1回アジア航空杯トーナメント戦優勝坂田栄男九段は第1回アジア航空杯トーナメント戦で優勝した。通算60個目のタイトル獲得。
1979年03月10日 林海峰九段、第1期鶴聖戦優勝:第1期鶴聖戦で林海峰九段が優勝した。
1979年03月13日 第1回アマチュア囲碁選手権戦始まる:3月17日まで行われ、中国・聶衛平が優勝した。
1979年03月18日 東野弘昭九段、NHK杯初優勝:第26期NHK杯戦で東野弘昭九段が高木祥一八段を下し、初優勝した。
1979年05月06日 緑星学園、誕生:菊池康郎氏が主宰する緑星学園が発足した。
1979年10月26日 第19期王冠戦、羽根泰正八段優勝:第19期王冠戦羽根泰正八段が優勝した。
1980年03月05日 坂田栄男九段、800勝達成坂田栄男九段が史上初の800勝を達成した。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1980年05月20日 坂田栄男九段、紫綬褒章受章
1980年07月04日 武宮正樹九段、本因坊返り咲き:第35期本因坊戦で武宮正樹九段は加藤正夫九段を4勝1敗で倒し、本因坊位に返り咲き、正樹と改号(旧号は秀樹)。
1980年08月04日 第1回藤沢秀行囲碁訪中団、中国へ出発藤沢秀行率いる第1回藤沢秀行囲碁訪中団が中国に出発した。
1980年10月09日 前代未聞の「無勝負」:第5期名人戦挑戦手合第4局、名人・大竹英雄九段と挑戦者・趙治勲八段の対局で趙治勲八段がコウ立てを打たず、直ちにコウを取った。取り番か否か記録係に確認してからの2度打ちだったことから、裁定の結果、無勝負となった。
1980年11月03日 増淵辰子六段、勲五等宝冠章受章

1981年04月24日 趙治勲八段、九段に昇段趙治勲八段(24)が九段に昇段した。

1981年05月26日 鈴木津奈三段、女流鶴聖戦優勝:第2期女流鶴聖戦で鈴木津奈三段が杉内寿子七段を下し、優勝した。
1981年06月16日 趙治勲九段、史上4人目の名人本因坊に趙治勲九段(24)は第36期本因坊戦で武宮正樹九段を破り、坂田栄男九段、林海峰九段、石田芳夫九段に続く4人目の名人本因坊になった。
1981年11月03日 藤田梧郎六段、勲五等双光旭日章受賞
1981年11月19日 橋本宇太郎九段、関西棋院第一位決定戦優勝:第24期関西棋院第一位決定戦、橋本宇太郎九段が石井新蔵九段を2勝1敗で下し、優勝。
1982年03月17日 中国プロ棋士誕生:中国で初めてプロ棋士の認定式(左から聶衛平、陳祖徳、呉淞笙)が行われた。
1982年03月18日 国際囲碁連盟発足:初代会長代行に有光次郎氏就任
1982年04月28日 伊藤友恵五段、勲五等宝冠章受章
1982年05月14日 第2回藤沢秀行囲碁訪中団、中国へ出発藤沢秀行が若手棋士を率いる第2回囲碁訪中団が出発した。
1982年09月15日 日中合作の囲碁映画「未完の対局」が全国公開される:日中戦争をはさんで、数十年にわたる日本と中国の二人の棋士の人生を描いた映画「未完の対局」が全国公開された。囲碁を題材とした日中合作映画は初めて。
1982年09月24日 レーザーディスクによる囲碁レコード「秀哉戦」が発売される
1982年10月20日 本田幸子六段、第1期女流本因坊戦優勝小林礼子六段を2勝1敗で下し、第1期女流本因坊に
1982年10月28日 佐藤直男九段、関西棋院第一位決定戦優勝:第25期関西棋院第一位決定戦、佐藤直男九段が関山利夫九段を2勝1敗で下し、優勝
1982年11月03日 島村俊廣九段、勲四等旭日小綬章受賞
1982年12月27日 片岡聡七段、初タイトル獲得:第8期天元戦片岡聡七段(24)が加藤正夫九段を破り、初タイトルを獲得した。
1983年03月31日 岩本薫九段、定年制適用第1号として引退:日本棋院は棋士の希望による65歳定年制を施行し、岩本薫九段が定年制適用第1号として引退た。
1983年07月21日 杉内寿子七段、八段に昇段杉内寿子七段は大手合で上村陽生七段を破り、史上初の女流現役八段になった。七段昇段から10年ぶりの昇段
1983年07月27日 林海峰九段、700勝達成林海峰九段が700勝を達成した。史上2人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1983年10月27日 坂田栄男九段、900勝達成坂田栄男九段が900勝を達成した。史上初。
1983年11月29日 馬暁春、世界最年少で九段に:馬暁春が中国4人目の九段に昇段した。19歳3ヶ月3日での九段昇段は世界最年少記録。(2007年6月に陳耀Y五段に破られる)
1984年01月01日 1984年現在のプロ棋士数は364人:1984年1月1日現在、日本棋院所属現役棋士269人、関西棋院所属現役棋士95人。このうち九段は60人(16%)。
1984年01月05日 篠原正美九段、田中三七一七段引退
1984年02月24日 呉清源九段(69)、引退呉清源九段(69)が引退を表明した。
1984年03月31日 高川秀格九段(名誉本因坊)(68)、引退
1984年07月25日 第3次藤沢教室、始まる藤沢秀行九段のよみうりランドの自宅に入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就、小松英樹らが集まって研究会を始めた。(この研究会はその後も弟子の森田、三村、高尾の他にも人数が増え、1984年からは年に2回の合宿=秀行塾を行うようになる)
1984年10月16日 日中スーパー囲碁戦、始まる:日中のプロ棋士8人による団体勝ち抜き戦、第1回日中スーパー囲碁戦が開幕した。(1985年11月20日に終了した)
1984年10月18日 依田紀基五段、最年少リーグ入り依田紀基五段(18)が18歳8ヶ月の最年少で第10期名人戦リーグ入りを果した。2005年10月27日に黄翊祖四段が18歳6ヶ月で名人戦リーグ入りするまで最年少記録となる。
1985年11月20日 鉄のゴールキーパー聶衛平誕生:1984年10月16日に開幕した第1回日中スーパー囲碁戦は、約1年が経過し5勝7敗で登場した中国・聶衛平九段が小林光一九段、加藤正夫九段、藤沢秀行九段を下して、中国に逆転優勝をもたらした。
1986年01月06日 趙治勲、交通事故に遭う趙治勲九段(棋聖)が自宅近くで車に轢かれ、全治3か月の重傷を負った。1月16日に棋聖戦防衛戦が予定されている。(1月16日の第1局は本人の強い希望で痛み止めを打って車椅子で臨み、挑戦者・小林光一九段に敗れた)
1986年01月16日 趙治勲、車椅子で対局:対局10日前の1月6日、自宅近くで車に轢かれ重傷を負った趙治勲棋聖は、1月16日の棋聖戦第1局に本人の強い希望で痛み止めを打って車椅子で臨み、挑戦者・小林光一九段に敗れた。
1986年07月30日 大竹英雄九段、700勝達成大竹英雄九段が700勝達成を達成した。史上3人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1986年11月27日 高川秀格九段、逝去:本因坊九連覇の偉業を達成し「秀格」と号した高川秀格九段が逝去された。享年71歳。
1987年01月09日 棋聖戦、ロサンゼルスで開催:第11期棋聖戦挑戦手合第1局がアメリカ・ロサンゼルスで行われる。
1987年03月05日 加藤正夫九段、700勝達成加藤正夫九段が700勝を達成。史上4人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。

1987年03月21日 留園杯終了:若手棋士の登竜門としてさる1977年から行われてきた留園杯争奪早碁トーナメントが、留園ビルの改築に伴い、10期限りで中止されることになった。呉清源大竹英雄林海峰九段らを囲んで、21日午後6時から、東京・港区芝公園の留園で「留園杯サヨナラパーティー」が開かれた(会費5千円)。
1987年04月02日 「岩本囲碁振興基金」創設:元本因坊で日本棋院顧問の岩本薫九段(85)から、東京都渋谷区恵比寿の研修道場「薫和サロン」の土地と建物(土地147平方メートル、鉄筋4階、5億3000万円相当)の寄贈があり、これを売却して日本棋院(当時:色部義明理事長)に「岩本囲碁振興基金」が出来た。日本棋院は「囲碁の国際普及、後進育成のための施設建設などに使いたい」と語った。
1987年04月04日 「ミニ碁一番勝負」放送開始:大阪のよみうりテレビで九路盤での勝ち抜き戦「ミニ碁一番勝負」の放映が始まった。毎週土曜日の午前6時15分から放映される。持ち時間は各2分30秒。解説・宮本直毅、石井邦生両九段、司会・水戸ゆかり初段。(2002年6月25日放送で終了した)
1987年04月10日 長谷川直八段、九段に昇段:関西棋院では27人目、日本棋院を含めると68人目の九段。

1987年04月27日 名誉棋聖・藤沢秀行九段、紫綬褒章受賞

1987年05月05日 関西棋院の芦田磯子六段、結婚へ:関西棋院のアイドル・芦田磯子六段(28)は同じ関西棋院の滝口政季五段(23)と5月5日のこどもの日に挙式をあげた。特に仲人は頼まず、式場も滝口五段の出身地、香川県の神社の神前で、という簡素なもの。披露宴も、双方の親類同士が顔合わせをする程度だそうだ。
1987年05月20日 陳嘉鋭、飛付き五段でプロデピュ―:1986年世界アマ囲碁選手権大会で優勝した香港の陳嘉鋭選手(31)が関西棋院のプロ五段としてスタート。5月20日から公式戦を打ち始めた。(7月まで本田邦久、牛窪義高九段らを相手に六連勝した) 陳五段は中国・広州の生まれ。日中囲碁にも何度か登場、世界アマも一、二回大会は中国選手として出場していたが、3年前、結婚のため香港に移住した。
1987年06月02日 中国囲碁協会、プロ棋士を増員:中国囲碁協会はこのほど七段9人と六段6人の計15人の専業(プロ)棋士の増員に踏み切った。最近の中国国内の囲碁ブームに対応するためだという。中国のプロ制度は1982年に発足したが、増員は1985年の12人に次いで二度目。これで同国のプロは合計で36人になった。
1987年06月11日 林海峰九段、800勝達成林海峰九段が800勝を達成した。史上2人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1987年08月13日 長谷川章元日本棋院理事長、死去:長谷川章氏(はせがわ・あきら=囲碁名誉八段、日本棋院顧問、元日本棋院理事長)は8月13日午後8時18分、胆管ガンのため、千葉県浦安市の順天堂浦安病院で死去した。87歳。葬儀・告別式は日本棋院、長谷川家の合同葬として8月17日午後1時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で。葬儀委員長は色部義明日本棋院理事長。喪主は妻、佳子(よしこ)さん。長谷川章名誉八段は大手合優勝2回、第3期首相杯争奪戦優勝、第6期囲碁選手権戦で高松宮賞受賞、1973年大倉賞、勲四等旭日小綬章受章。
1987年09月27日  江鋳久八段、銭宇平八段、九段に:中国の段位戦で江鋳久八段(25)、銭宇平(20)八段の二人が九段になった。これで中国の九段は六人(オーストラリアに移住した呉淞笙九段を除く)になった。なお中国には降格制度があり、王剣坤七段が段位はそのままで六段格に降格した。
1987年10月08日 林海峰九段反則負け:第12期名人戦七番勝負第3局は10月7日朝から静岡県・伊豆長岡の旅館で始まり、10月8日午後6時31分、189手で白番の挑戦者・林海峰九段が反則負けし、加藤正夫名人は3連勝となり名人初防衛にあと1勝とした。林九段が188手目を打って夕食の打ち掛けになったが、午後6時30分の再開直後に、林九段が続けて189手目を打ったため「二手打ち」の反則負けとなった。囲碁タイトル戦では1971年のプロ十傑戦で石田芳夫七段(当時)が、コウ立てをしないでコウを取って反則負けになって以来のハプニング。

1987年10月23日 小林覚八段、九段に昇段小林覚八段(28)が九段に昇段した。日本棋院の現役九段は45人目、関西棋院を合わせると72人目の現役九段。現役棋士全体の約5人に1人が九段になった。
1987年11月07日 久保勝昭八段、九段に昇段:久保勝昭八段(29)が九段に昇段した。関西棋院で28人目。日本棋院を合わせると73人目の現役九段。全棋士の5人に1人が九段。二番目は六段の63人、五段の51人と続いている。一番少ないのは二段の18人で、八段は32人。
1987年12月18日 色部日本棋院理事長、健康を理由に今年限りで辞任へ:財団法人・日本棋院の色部義明理事長(協和銀行相談役)は12月18日、健康を理由に今年限りで理事長を辞任することを明らかにした。色部理事長は1986年7月、財政再建のために請われて就任、合理化を進めて来た。
1987年12月28日 趙治勲九段、グランドスラム達成:第13期天元戦趙治勲九段が小林光一天元を降し、無冠返上とともにグランドスラム(棋聖・名人・本因坊・十段・天元・王座・碁聖の挑戦手合制七大公式タイトル)を達成した。
1988年01月08日 棋聖戦、ハワイで開催:第12期棋聖戦挑戦手合第1局がハワイ・ホノルルで行われる。
1988年01月13日 日本棋院理事長に朝田氏:財団法人日本棋院は1月13日午後、理事会を開き、空席になっている理事長に、日本航空の相談役・朝田静夫氏(76)を選んだ。「まず、国の内外を問わず積極的な普及活動の展開を、そして青少年の育成強化や外国人留学生のための囲碁教育普及センターの建設も、ぜひ完成させたい」と抱負を語った。任期は1990年6月末まで。朝田氏は東京大学卒業後運輸省入り、運輸事務次官を経て1971年から1981年まで日本航空社長を務めた。
1988年02月13日 「世界囲碁選手権・富士通杯」創設:読売新聞社は4月から「世界囲碁選手権・富士通杯」を実施すると社告。第1回は日本棋院5人、関西棋院2人、中国囲棋協会4人、韓国棋院3人、米国囲碁協会、欧州囲碁連盟各1人の五か国16人が出場する。
1988年03月01日 日本棋院、免状料値上げ:日本棋院は免状取得料を初段3万円(現在2万5千円)、二段4万円(3万円)、三段5万円(4万円)、四段6万円(5万円)、五段で10万円(8万5千円)、六段20万円(17万円)に値上げした。前回の値上げは1981年だから七年ぶりとなる。
1988年04月16日 日本棋院、大手合の制限時間短縮見送り:日本棋院が八段以下の全棋士に大手合の制限時間の短縮についてアンケートしたところ、現行の6時間に賛成が50票、5時間に短縮が115票だった。今回は70%以上賛成なら改正という前提でアンケートしたが、69%強とわずかに及ばなかったため、時間短縮は見送られた。(1988.04.16読売新聞「盤側」より)
1988年05月25日 「月刊碁学」が休刊:アマチュアの初、中級者向けの解説で、1976年9月から親しまれてきた囲碁雑誌の「月刊碁学」が、ことしの7月号を最後に休刊することになった。編集者兼発行人の三木正さん(68)は「私自身限界を感じたし、後継者もいないので」と休刊の弁。最終号は5月25日の発売だ。長い間ご苦労さまでした。
1988年06月02日 IBM早碁オープン戦、始まる:日本のプロのほか中国と韓国の棋士を加えた早碁の棋戦が始まる。「IBM早碁オープン戦」で、第1回のことしは6月に予選開始、9月に決勝戦の予定。本戦への出場者は日本60人、中国、韓国各2人の計64人。持ち時間1時間のトーナメント。日本で対局し、優勝者には300万円の賞金が出るという。
1988年06月24日 内廼偉八段、劉小光八段、九段に昇段内廼偉は女流棋士初の九段。これで中国の九段は7人(聶衛平、馬暁春、曹大元、銭宇平、江鋳久、劉小光、内廼偉)になった。
1988年08月19日 「応氏杯・世界プロ囲碁戦」始じまる:日本、中国、韓国、台湾、オーストラリア、アメリカの五か国一地域から16選手が参加して「応氏杯・世界プロ囲碁戦」が北京で開かれる。中国と国交のない韓国の選手が中国入りするのはもちろん初めてだが、台湾の選手が中国で試合をするのは、あらゆる競技を通じて初めて。優勝者には40万ドル(5200万円)、準優勝者には10万ドルが贈られる。持ち時間各3時間、応昌期ルール、先番7目半コミ出し、目数は日本式に換算。
1988年09月16日 片岡聡八段、九段に昇段片岡聡八段は上村陽生九段に続いて今年2人目の九段に昇格。これで日本棋院の現役九段は47人になった。
1988年09月21日 王立誠八段、九段に昇段王立誠八段が日本棋院で48人目、関西棋院を合わせると76人目の九段になった。九段の数はプロ棋士のほぼ五人に一人。王立誠は台湾出身では林海峰九段に次いで二人目の九段。
1988年10月13日 荒木真子二段(関西棋院)、将棋棋士と結婚:関西棋院所属の荒木真子二段(23)が将棋の脇謙二・六段(23)と10月13日大阪で結婚式を挙げた。囲碁同士は多いが将棋・囲碁のカップルは史上初。
1988年10月27日 武宮正樹九段、反則負け:第36期王座戦挑戦手合5番勝負第1局で加藤正夫王座に挑戦した武宮正樹九段(本因坊)はコウ立てをしないでコウを取ったため反則敗けした。正しくコウ争いをしていれば武宮正樹九段の勝ちだった。1987年10月8日(2日目)、第12期名人戦七番勝負第3局で林海峰九段がコウ立てをしないでコウを取る反則負けをして以来3度目の出来事。
1989年01月05日 「日本棋院南米会館」(ブラジル・サンパウロ市)竣工落成:海外の囲碁会館第一号、日本棋院南米囲碁会館が完成し、その竣工式と日本棋院南米本部の開業式が1月5日、同会館で行われた。ブラジル、サンパウロ市に敷地160坪、総建坪280坪で完成した会館はすでに法人会員約40社、個人会員140人が入会している。式典には日本側から岩本薫九段、長原芳明日本棋院常務理事、藤田梧郎関西総本部棋士会長、高木祥一九段らプロ棋士11名を含む35人が出席。また現地側は丸山俊二総領事をはじめとして200名が出席した。
1989年01月18日 棋聖戦、ニューヨークで開催:第13期棋聖戦挑戦手合第1局(1月17.18日)がアメリカ・ニューヨークで行なわれた。挑戦者・武宮正樹九段が棋聖・小林光一九段に白番中押勝ち。
1989年03月23日 小林光一九段、700勝達成小林光一九段が700勝を達成した。史上5人目。達成時勝率.708(史上1位)。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1989年03月30日 囲碁、オックスフォード・ディクショナリーに載る:世界最高の英語辞書といわれるOxford English Dictionary (OED) が61年ぶりの改訂され、サシミ、ショウユ、トウフ、フトンとともに柔道・剣道など日本古来のスポーツ、囲碁、将棋などが英語化した日本語として収録された。
1989年04月05日 中国プロ棋士・呉淞笙九段、韓国棋院の「客員九段」に:中国のプロ棋士の地位を捨ててオーストラリアに渡った呉淞笙九段はこのほど韓国に移住、韓国棋院の「客員九段」として同国の公式戦に参加する。韓国棋院の全面協力で決まった。近く、家族も韓国に呼び寄せるそうだ。まだ囲碁人口の少ないオーストラリアで碁で生活するのは難しいらしい。
1989年05月13日 本因坊戦、スペインで開催:第44期本因坊戦挑戦手合第1局(5月12.13日)がスペイン・マドリードで行なわれた。挑戦者・趙治勲九段が本因坊・武宮正樹九段に黒番中押勝ち。
1989年05月15日 日本棋院、関西棋院、日本囲碁規約を改訂:日本棋院、関西棋院は四十年ぶりに囲碁規約を改正した。改正されたのは、昭和24年10月に制定された規約70条、付属規定10条のうち、ルールに関する33条・判例4つに限られ、これまであいまいだった「隅の曲がり四目は死」などを理論化しただけ。アマチュアの対局にはほとんど関係はない。両棋院は5月15日から実施とした。
1989年07月12日 川本昇八段、九段に昇段:日本棋院で49人目、関西棋院を合わせると77人目の九段。川本九段は東京出身の46歳。増淵辰子六段門下、1961年に入段。1981年に八段。現在、日本棋院棋士会の副会長を務めている。
1989年07月27日 藤沢秀行九段、700勝達成藤沢秀行九段、700勝達成、史上6人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1989年08月17日 趙治勲九段、700勝達成趙治勲九段が700勝を達成した。史上7人目。33歳1ヶ月での達成(史上1位)。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1989年09月03日 囲碁将棋ウィークリー放送開始:NHK衛星第二放送で新番組「囲碁将棋ウィークリー」始まる。
1989年09月05日 第1回応氏杯世界プロ選手権戦、゙薫鉉優勝:第1回応氏杯世界プロ選手権戦で゙薫鉉九段(韓国)が聶衛平九段(中国)を3−2で破り、第1回の応氏杯を獲得した。
1989年09月15日 名人戦、イギリスで開催:第14期名人戦挑戦手合第1局(9月14.15日)がイギリス・ロンドンで行なわれた。挑戦者・淡路修三九段が名人・小林光一九段に白番中押勝ち。
1989年10月20日 日本棋院・囲碁研修センター、完成:強いプロ棋士を育てるため院生を徹底的に鍛えようと、日本棋院が千葉市幕張に建設していた「囲碁研修センター」の完工式が行われた。JR総武線幕張本郷駅から徒歩14分で鉄筋3階建て。院生は寄宿または通いながら修業に励む。外国人の囲碁指導者を育てるため研修も同時に行われる。(2004年に財政難で売却)
1990年01月11日 羽根泰正九段、700勝達成羽根泰正九段が700勝を達成した。史上8人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1990年01月25日 大竹英雄九段、800勝達成大竹英雄九段が800勝を達成した。史上3人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。

1990年04月30日 安倍結美子初段、石井衛九段に勝つ:CATV杯早碁戦(非公式棋戦)で安倍結美子初段(19)が石井衛九段(52)の大石を召し捕って勝った。九段に対する初段の勝利は大正13年の日本棋院創立以来2人目。昭和58年秋に二宮英子初段(現小松二段)が茅野直彦九段に勝ったのが女流初段初。安倍初段の父親・吉輝九段は「僕が勝てないのに…でも公式戦でないので記録に残らないのが残念」。
1990年06月18日 林海峰九段、900勝達成林海峰九段が900勝を達成した。史上2人目。
1990年07月31日 影山利郎七段、死去影山利郎七段が心不全のため、東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。64歳。昭和23年、全日本アマ本因坊戦に優勝してプロ入りし、52年七段。"囲碁レッスン日本一"と謳われアマ囲碁の普及に尽くした。著書に「アマの碁ここが悪い」など。
1990年08月10日 林海峰九段宅に初の内弟子林海峰九段が8月初め、自宅に内弟子を入れた。台湾からの張栩(ちょう・く)君(10)で、8月半ばには同じ台湾から、2人目の林子淵(11)君も来日の予定。世界の子供を集めて囲碁塾を開くのが林天元の年来の夢だったそうで、2人の内弟子はその第一歩だ。実力は林天元に三子だというから、入段は近いかも。
1990年09月15日 今村俊也八段、九段に昇段:関西棋院の現役で29人目、日本棋院を合わせて現役九段は79人になった。今村九段は24歳。入段以来10年6か月のスピード昇段だが、橋本昌二九段の年少記録(23歳7か月)、清成哲也九段の最短記録(10年3か月)にはわずかに及ばなかった。
1990年09月27日 武宮正樹九段、700勝達成武宮正樹九段が700勝を達成した。史上9人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1990年09月20日 内廼偉九段、日本棋院での活動を断られる:当時最強と云われていた日本棋士との対局を夢見て中国より来日した内廼偉九段は顔見知りの女性棋士に伴われ東京・市谷の日本棋院を訪れ「日本で碁を打たせて欲しい」と訴えたが、日本棋院の理事は約1ヶ月前に中国囲棋協会より送られてきた「海外に滞在する中国の国家段位を持つ棋士は、中国囲棋協会が派遣、権限を与えた者以外、当該国(地域)のプロ棋戦に参加してはならない」と書かれた通知書を見せ、内廼偉九段の日本での対局を断った。
1990年11月09日 小林光一九段、初の"1億円棋士"に:11月8日、名人戦の防衛を果した小林光一九段は囲碁・将棋界を通じて初の一億円棋士になることが確実になった。名人戦の賞金・対局料は3080万円だが、棋聖防衛で3800万円を獲得したのをはじめ、碁聖防衛で665万円、本因坊戦挑戦敗退で830万円など累計9494万円になった。現在戦っている天元戦をはじめ年内の対局ですべて敗れても一億円を突破することは間違いないという。
1990年12月06日 加藤正夫九段、800勝達成加藤正夫九段が800勝を達成した。史上4人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1990年12月22日 高野英樹さん全階級制覇:第34回全日本学生学生本因坊戦で大阪大の高野英樹氏(現プロ棋士)が優勝。小学生名人・中学生名人・高校選手権個人優勝に続いて学生個人戦優勝を決め、全階級制覇を達成した。
1991年03月09日 加藤正夫九段、NEC杯初優勝:第10期NEC杯で加藤正夫九段が初優勝した。
1991年03月17日 依田紀基八段、NHK杯初優勝:3月17日に放映された第38回NHK杯で依田紀基八段が初優勝した。
1991年03月18日 武宮正樹九段、鶴聖戦初優勝:第13期鶴聖戦で武宮正樹九段が大竹英雄九段を下し、初優勝した。
1991年03月20日 小林光一九段、棋聖戦6連覇:第15期棋聖戦で小林光一九段は挑戦者・加藤正夫九段を下し6連覇を達成し、藤沢秀行名誉棋聖の記録と並んだ。
1991年03月26日 「依田紀基対李昌鎬五番勝負」開催依田紀基八段が李昌鎬四段に3勝2敗で勝利
1991年04月05日 馬場滋八段、九段に昇段:東京本院所属・久島国夫八段(44)と中部総本部所属・馬場滋八段(43)の二人が九段に昇段し、日本棋院の現役九段は52人に。
1991年04月25日 第29期十段戦、武宮正樹九段が防衛:第29期十段戦武宮正樹九段が趙治勲九段を3勝2敗で退け、防衛した。
1991年06月03日 木谷春美さん、死去(享年81歳):故木谷実九段夫人・木谷春美さんが死亡した。
1991年06月21日 島村俊廣九段、死去(享年79歳):急性肺炎ため名古屋市瑞穂区高酒木病院で亡くなった。島村九段は1929年入段、1960年九段。中部総本部に所属し活躍、タイトル獲得数は15に上る。棋風は地味ながら、「いぶし銀の味」といわれた。1977年、65歳での天元位獲得は、碁界の最高齢記録となっている。1983年引退。門下に羽根泰正王座、山城宏九段ら。
1991年06月25日 第4回日中天元戦、林海峰九段が勝利:第4回日中天元戦で林海峰九段が聶衛平九段に2勝0敗で勝利した。
1991年07月18日 第46期本因坊戦、趙治勲九段が防衛趙治勲九段が小林光一九段を4勝0敗で下し、三年連続タイトル防衛(通算5期)
1991年08月03日 第4回富士通杯、趙治勲九段が不戦勝優勝:決勝戦は、8月3日午前10時から、東京・芝の東京プリンスホテルで打たれることになっていたが、8月1日昼前、中国囲棋協会から読売新聞社に「銭宇平九段は突然発病し、頭痛が激しいので入院治療の必要があり、決勝戦には出場出来ない」との連絡があった。しかし競技規定には「対局時刻」の項に「遅刻が30分を超えた場合は不戦敗とする」としか決めていないので、3日午前10時30分、趙治勲九段の不戦勝と初優勝が正式に決定した。不戦勝、不戦敗は、世界囲碁選手権・富士通杯では初めて。また3位決定戦の小林光一九段も、2日昼すぎから40度を超す熱で対局場に現れず、規定により午前10時30分、不戦勝で王立誠九段の3位が決定した。
1991年08月10日 第2回日本コンピュータ囲碁選手権大会開かれる
1991年08月18日 第1回竜星戦、趙治勲九段が初の竜星位に:第1回竜星戦で趙治勲九段が石田芳夫九段を下し、初の竜星位に就いた。
1991年08月26日 第13期女流鶴聖戦、青木喜久代四段が女流鶴聖位に:青木喜久代四段が宮崎志摩子二段を下し、初の女流鶴聖位に。
1991年08月27日 第3回テレビ囲碁アジア選手権戦、武宮正樹九段が三連覇:第3回テレビ囲碁アジア選手権戦決勝戦で武宮正樹九段が中国・曹大元九段を下して、優勝し、3連覇を果たした。
1991年08月27日 小林光一九段、碁聖戦四連覇:第16期碁聖戦で小林光一九段が小林覚九段を3勝2敗で下し、四連覇を達成した。
1991年09月13日 上村邦夫八段、九段に昇段:日本棋院の現役九段は52人になった。
1991年09月16日 趙善津六段が新人王戦初優勝:第16期新人王戦で趙善津六段は柳時熏四段を下し、初優勝した。
1991年09月19日 Mレドモンド七段、中国人留学生と結婚:青い目の棋士、マイケル・レドモンド七段(28)がこのほど結婚した。お相手は中国から日本に留学中の牛ケンケンさん(27)。二年前、軽井沢で知り合って交際していた。すでにアメリカ大使館と居住地の東京・杉並区役所にも届け、秋には故郷のカリフォルニアで披露宴を開く。
1991年09月28日 第24回早碁選手権戦、趙治勲九段が優勝趙治勲九段が結城聡七段を下し、2年連続、3度目の優勝。
1991年10月24日 小林光一九段、名人戦四連覇:第16期名人戦で小林光一九段は林海峰九段を4勝1敗で下し、四連覇(通算5期)を達成した。
1991年10月28日 藤沢秀行九段が史上最高齢66歳の王座に:第39期王座戦藤沢秀行九段は羽根泰正九段を3勝1敗で下し、史上最高齢66歳で王座タイトルを獲得した。
1991年11月03日 藤沢朋斎九段、勲四等旭日小綬章を授章
1991年11月07日 小県真樹九段、王冠戦四連覇:第32期王冠戦で小県真樹九段は羽根泰正九段を下し、四連覇を達成した。
1991年11月10日 女流棋戦初の海外開催:第10期女流本因坊戦第一局は女流棋戦初の海外対局(ハワイ・ホノルル市)となった。
1991年12月02日 中沢彩子二段、20歳で初防衛:第10期女流本因坊戦で中沢彩子二段は小林千寿五段を2勝1敗で下し、20歳で初防衛に成功した。
1991年12月12日 第4回日中名人戦、小林光一九段が四連覇:第4回日中名人戦で小林光一九段が馬暁春九段を2勝0敗で下し、四連覇を達成した。
1991年12月19日 林海峰九段、天元戦3連覇:第17期天元戦林海峰九段は加藤正夫九段を3勝1敗で下し、3連覇を達成した。
1992年01月07日 日本棋院八重洲囲碁センター・オープン:東京駅八重洲口わきの国際観光会館五階にある日本棋院中央会館が全面改装されて、「八重洲囲碁センター」として新たにオープンした。碁盤が100面から130面に増えた一般対局室は利用料金が少しアップした。(2002年5月25日閉館)
1992年01月13日 藤沢朋斎九段、現役を引退藤沢朋斎九段が現役を引退した。大正8年3月、横浜市生まれの72歳。昭和24年に大手合制度で初めて九段に昇段した。日本棋院の現役九段は52人になった。
1992年01月23日 石田芳夫九段、700勝達成石田芳夫九段が700勝を達成した。史上10人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1992年01月27日 李昌鎬五段(16)が史上最年少の世界チャンピオンに:第3回東洋証券杯世界選手権戦で韓国の李昌鎬五段(16)が林海峰九段を3勝2敗で下し優勝。16歳6ヶ月、史上最年少の世界チャンピオンが誕生した。
1992年02月05日 杉内寿子八段、女流名人戦3連覇:第4期女流名人戦で杉内寿子八段は青木喜久代五段を2勝0敗で下し、3連覇を達成した。
1992年02月13日 坂田栄男九段、1000勝達成坂田栄男九段が1000勝を達成した。史上初めて。達成時の年齢は71歳11ヶ月。
1992年02月17日 IGS誕生:世界初のインターネット囲碁サーバIGS(Internet Go Server)が米国・ニューメキシコ州立大学で無料で稼動した。設計者はTim Casey、管理人はtweetであった。
1992年03月02日 林海峰九段、鶴聖戦2度目の優勝:第14期鶴聖戦で林海峰九段は大竹英雄九段を破って、2度目の優勝をした。
1992年03月07日 加藤正夫九段、NEC杯2連覇:第11期NEC杯で加藤正夫九段は小林光一九段を下し、2連覇を達成した。
1992年03月15日 中国棋院、完成:中国の棋類(囲碁、中国象棋、チェス)活動の拠点になる中国棋院(天壇東路)が完成、落成記念式が行われた。日本から関西棋院・橋本宇太郎理事長(九段)夫妻や日本棋院・大枝雄介常務理事(八段)ら、中国各地から約350人が出席した。
1992年03月19日 小林光一九段、棋聖戦7連覇:第16期棋聖戦で小林光一九段は山城宏九段を4勝3敗で下し、7連覇を達成した。
1992年03月29日 趙善津六段、新鋭トーナメント戦初優勝:第22期新鋭トーナメント戦で趙善津六段は大矢浩一七段を下し、初優勝した。
1992年04月09日 大平修三九段、700勝達成大平修三九段が700勝を達成した。史上11人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1992年04月20日 王銘宛八段、九段に昇段:日本棋院の現役では53人目、関西棋院を合わせると現役九段は81人目。九段は全現役棋士(425人)の19%を占める。
1992年04月29日 日中囲碁交流戦、終了:日中の国交回復と同時に始まり、今年第20回大会を開催した日中囲碁交流戦は今回で終了した。最後の3回は若手交流戦だったが、3年連続の負け越しであった。
1992年05月05日 大枝雄介八段、九段に昇段:八段在籍18年という日本棋院の最長記録を持っていた大枝雄介八段(57)が九段に昇段した。54人目の九段で、関西棋院を含めると九段は83人になった。大枝新九段は57歳。長年、日本棋院の理事を務めながら、昇段手合の大手合だけに参加していた。
1992年05月09日 日本棋院ヨーロッパ文化センター(オランダ・アムステルダム)オープン:ヨーロッパの囲碁普及の拠点にと開設を急いでいた欧州囲碁文化センターの開設式には、岩本薫九段ら日本棋院所属のプロ棋士が多数出席して指導碁会が行なわれた。
1992年05月18日 杉内雅男九段、勲四等旭日小綬章を授章
1992年05月19日 日韓コンピューター通信囲碁対抗戦開催:日本棋院と韓国棋院は共同で「日韓コンピューター通信囲碁対抗戦」を東京と韓国・ソウルを結んで行われ、日本チームは3人とも敗れた。石田芳夫九段ば薫鉉九段に半目、石倉昇八段は張秀英八段に、M・レドモンド七段は梁宰豪七段に、それぞれ中押し負けだった。持ち時間は各1時間半。
1992年05月29日 宮沢吾朗八段、九段に昇段:宮沢吾朗八段(42)が九段に昇段。日本棋院の現役九段は55人に、関西棋院を含めると84人になった。
1992年06月20日 日中天元戦、中国初勝利:第5回日中天元戦、聶衛平九段が林海峰九段を2勝0敗で下し、中国初勝利。
1992年07月02日 結城聡七段、24連勝でストップ:今年初めから負けなしの24連勝を続けていた関西棋院の結城聡七段(20)に、このほど土がついた。負かしたのは陳嘉鋭七段。同棋院の大手合がその舞台。これまでの記録は昭和38年から39年にかけて、坂田栄男九段が作った29連勝、単年では1977年、林海峰九段の24連勝だが、結城七段は林九段の記録に並んだ。
1992年07月15日 内廼偉九段、日本で結婚:アメリカ在住の江鋳久九段(30)が、第2回応昌期杯世界プロ囲碁選手権に招かれて来日、内廼偉九段(28)と2年ぶりに再会したのを機会に日本で結婚した。二人は中国在住当時は恋人同士だった。「法律的なことは別にして結婚しました。いずれ私が彼の住んでいるサンフランシスコに行くでしょう」と内廼偉九段。
1992年07月23日 趙治勲九段、本因坊4連覇:第47期本因坊戦で趙治勲九段は小林光一九段を3連敗後4連勝で大逆転し、4連覇を達成した。
1992年08月01日 大竹英雄九段、富士通杯初優勝:第5回富士通杯、大竹英雄九段が王立誠九段を下し、初優勝した。
1992年08月02日 藤沢朋斎九段、死去(享年73歳):日本で初めて囲碁九段になった藤沢朋斎(ふじさわ・ほうさい=日本棋院棋士九段、旧名庫之助)さんが、2日午後7時50分、胃カイヨウのため神奈川県の病院で亡くなった。73歳。1933年入段。1949年、大手合制度で初の九段に昇進した。六段時代の1943年、読売新聞社主催の呉清源氏との十番碁に勝った(定先で6勝4敗)が、戦後、二人が九段に昇段してからの二次にわたる十番碁では定先に打ち込まれた。この2回にわたる十番碁は全国の囲碁ファンをわかせた。本因坊戦リーグ在籍通算13回を誇り、1957年には挑戦者。名人戦リーグにも14期連続在籍するなど、長期間、一流棋士として活躍した。1964年に第3期十段を獲得するなどタイトル獲得数は7。藤沢秀行王座は叔父にあたる。
1992年08月06日 小林光一九段、800勝達成小林光一九段が800勝を達成した。史上5人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1992年08月16日 大竹英雄九段、竜星戦初優勝:第2回竜星戦で大竹英雄九段が趙治勲九段を下し初優勝した。
1992年08月18日 趙治勲九段が初の内弟子趙治勲九段(本因坊)が初めて内弟子を取った。韓国ソウル市出身の金秀俊君(13)と同水原市出身の金光植君(12)の2人で、10月から日本棋院の院生になる。趙本因坊はガレージをつぶして内弟子の部屋を作り、「2人とも天才ではないかもしれないけど秀才は間違いなし。頑張り屋だし…」と期待している。
1992年08月20日 鯛中新九段(関西棋院)、死去(享年80歳)鯛中新九段は橋本宇太郎総帥(九段)を助けて1950年の関西棋院創立に働いた。理論的な棋風で安定した成績を残し、第7期本因坊リーグで挑戦権を逃したこともある。すきのない文章で知られた。
1992年08月26日 小林光一九段、碁聖戦5連覇:第17期碁聖戦で小林光一九段は小林覚九段を3勝1敗で下し、5連覇を達成した。
1992年09月02日 関山利夫九段(関西棋院)、死去(享年55歳)
1992年09月05日 武宮正樹九段、テレビ囲碁アジア選手権戦4連覇:第4回テレビ囲碁アジア選手権戦決勝戦で武宮正樹九段が韓国・゙薫鉉九段を破って、4連覇を果たした。
1992年09月09日 世界初のインターネット中継:1992年9月9.10日、日本の第17期名人戦挑戦手合7番勝負第1局がオランダの首都Amsterdamで行われ、オランダの囲碁ファンJansteenなどにより棋譜が入力され、IGS(Internet Go Server)上で初めてプロ対局が"中継"され、世界の100人以上の囲碁ファンがプロ棋戦を観戦した。
1992年09月21日 青木喜久代五段、女流鶴聖戦2連覇:第14期女流鶴聖戦で青木喜久代五段は吉田美香五段を下し、2連覇を達成した。
1992年09月29日 小松英樹八段、2度目の新人王に:第17期新人王戦で小松英樹八段はMレドモンド七段を2勝0敗で下し、2度目の新人王になった。
1992年10月10日 田中三七一七段、死去:田中三七一氏(たなか・みないち=囲碁棋士七段、日本棋院所属) 10月10日午後0時55分、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去。88歳。昭和59年、現役引退。武宮正樹九段の師匠として知られる。
1992年10月23日 関西棋院、家主と和解:財団法人関西棋院(橋本宇太郎理事長)と家主の日本文化会館(大阪市中央区北浜二、佐藤全社長)が家賃の値上げをめぐって争っていた訴訟は10月22日午後、大阪地裁民事九部で和解が成立。家賃を従来通りの月額1万円、11月から別に維持管理費として同19万円を会館側に払うことで、提訴以来、3年半ぶりに決着した。会館は、昭和43年8月、関西棋院と後援者が出資して建てた。地上九階、地下二階建てで、うち七階294平方メートルを関西棋院が対局場に使用。当時、「賃料は月1万円とし、公租公課や近隣賃料が変動しても増減しない」とする20年間の賃貸契約を交わしていたが、昭和62年3月、大阪国税局が「正当な賃料は最低月50万円」とし、その半分を会館の収入として課税。このため会館側は同年6月から月25万円に値上げすると通告していた。
1992年10月25日 趙治勲九段、早碁選手権戦3連覇:第25回早碁選手権戦趙治勲九段が王立誠九段を下し、3連覇。
1992年11月03日 坂田栄男九段、文化功労者に
1992年11月05日 羽根泰正九段、9年ぶりに王冠に:第33期王冠戦羽根泰正九段は9年ぶりに王冠位を奪還した。
1992年11月10日 宗教法人「阿含宗」、日本棋院に5000万円寄付:「囲碁の普及に役立ててほしい」と宗教法人「阿含宗」(桐山靖雄管長)から日本棋院に5000万円の寄付が寄せられた。日本棋院は岩本薫九段が私財を寄付した「岩本基金」で、ブラジル、オランダに会館を建てているが、この寄付で囲碁の海外普及に一層拍車がかかるかもしれない。
1992年11月12日 小林光一九段、名人戦5連覇:第17期名人戦で小林光一九段は大竹英雄九段を4勝3敗で下し、5連覇を達成した。
1992年11月24日 女流本因坊戦、加藤朋子初段がタイトル奪取:第11期女流本因坊戦で加藤朋子初段は中沢彩子三段を2勝0敗で下し、タイトル奪取した。
1992年11月25日 藤沢秀行九段が最高齢タイトル記録を更新:第40期王座戦藤沢秀行九段(67)は小林光一九段を3勝2敗で下し、最高齢タイトル記録(67歳)を更新した。
1992年11月26日 清成哲也九段、関西棋院第1位決定戦優勝:清成哲也九段(30)が関西棋院第1位決定戦決勝3番勝負第3局で倉橋正蔵八段を276手までで白番1目半勝ちで下し、2勝1敗で初優勝した。
1992年12月09日 「第1回真露杯世界囲碁最強戦」開幕:日本、中国、韓国による三国対抗戦「第1回真露杯世界囲碁最強戦」(農心杯の前身)がソウルで開幕。(結果は韓国、日本、中国の順だった)
1992年12月09日 林海峰九段、天元戦4連覇:第18期天元戦林海峰九段は山城宏九段を3勝1敗で下し、4連覇を達成した。
1992年12月18日 第5回日中名人戦、中国初勝利:馬暁春九段が小林光一九段を2勝1敗で下し、中国初勝利
1993年01月03日 増淵辰子八段、死去(享年88歳):大正12年入段。昭和28年引退。囲碁の普及に努め、平成3年、七段を贈られた。門下に坂田名誉本因坊、大窪一玄九段ら。
1993年02月03日 杉内寿子八段、女流名人戦4連覇:第6期女流名人戦で杉内寿子八段は小川誠子五段を2勝1敗で下し、4連覇を達成した。
1993年04月08日 趙治勲九段、800勝達成趙治勲九段が800勝を達成した。史上6人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1993年04月17日 第1回関西囲碁将棋記者クラブ賞に結城聡七段:新聞21社、テレビ3局で構成する関西囲碁将棋記者クラブは「関西囲碁将棋記者クラブ賞」を新設、平成4年度の成績を基準に選考し、将棋の谷川浩司九段と囲碁の結城聡七段を選んだ。結城七段は8割を超える勝率が決め手になった。
1993年04月26日 関西棋院・橋本理事長が高齢で辞任:財団法人関西棋院は、高齢を理由に辞意を表明していた橋本宇太郎理事長・九段(86)に代行を置くことを決め、水田ノブ博総務担当理事・九段(55)を理事長代行に選んだ。
1993年04月27日 朝田静夫・前理事長、日本棋院総裁に:財団法人・日本棋院は代議員会を開き、朝田静夫・前理事長(81)を第7代総裁として選出した。
1993年05月15日 「碁族」が旗揚げ:女性や子供たちにも碁に親しんでもらおうと、藤沢秀行王座、武宮正樹九段らプロ棋士とアマチュアの愛好家が集まってパフォーマンス集団「碁族」を結成、5月15日、東京・稲城市のよみうりランドで旗揚げ集会を開いた。
1993年08月2日 鄭銘コウ八段、九段に昇段:台湾出身の鄭銘コウ八段(30)が8月20日付で九段に昇段した。昭和53年に来日し、富田忠夫八段門下。王銘ワン九段は実兄、鄭銘キ六段は実弟。兄弟棋士は小林千寿、覚、健二、孝之四兄弟ら数多いが、九段2人は石井衛、邦生兄弟、宮本直毅、義久兄弟に次いで3組目。外国出身ではむろん初めて。
1993年08月12日 大竹英雄九段、900勝達成大竹英雄九段が900勝を達成した。史上3人目。
1993年09月23日 公式戦史上初の長生無勝負:第49期本因坊リーグ戦第1ラウンド、林海峰九段対小松英樹八段戦で公式戦史上初の「長生」(ちょうせい)無勝負が成立した。無勝負はトーナメント戦では打ち直しが規則。ただしリーグ戦はそのままで半星扱いとすることになった。
1993年09月23日 加藤正夫九段、900勝達成加藤正夫九段が900勝を達成した。史上4人目。達成時の年齢は46歳6ヶ月。
1993年10月01日 小県真樹八段、九段に昇段:今期の棋聖戦・各段優勝戦の八段の部で優勝し、最高棋士決定戦に初出場するなど好成績をあげている小県真樹八段(29)が、10月1日付で九段に昇段した。中部総本部の九段棋士はこれで七人になった。
1993年10月29日 依田紀基八段、九段に昇段:棋聖戦や名人、本因坊戦リーグなど第一線で活躍している依田紀基八段(27)が大手合で昇段点に達し、10月29日付で九段に昇段した。
1994年01月24日 藤田梧郎七段、死去(享年91歳)藤田梧郎氏は日本棋院関西総本部副本部長。戦後、学生碁界復興に力を尽くし、全国学生囲碁連盟副会長を務めていた。門下に林海峰九段、坂口隆三九段ら。
1994年02月02日 安永一氏(囲碁評論家)、死去安永一氏死去、享年92歳。昭和7年、編集者として日本棋院に入り、翌8年、木谷実呉清源両氏の編み出した“新布石法”に理論的体系を与えた著書「新布石法」「実戦新布石」を刊行、囲碁界に革命的新風を吹きこんだ。日本棋院を去った後は、在野の立場から伝統的な棋界の考え方に鋭い論評を加え続け、またアマチュア棋士としては78歳で世界選手権の日本代表になり3位に入賞するなど囲碁界の名物男だった。日中囲碁交流にも貢献、日中友好協会理事を務めた。プロ棋士の門下生として小松英樹八段、石毛嘉久夫七段らがいる。
1994年06月23日 羽根泰正九段、800勝達成羽根泰正九段が800勝を達成した。史上7人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1994年07月24日 橋本宇太郎九段、死去:関西棋院の総帥で囲碁界現役最長老の橋本宇太郎九段(87)が亡くなった。大正9年、大阪から上京し、瀬越憲作五段(のち名誉九段)門下となり、大正11年初段、昭和29年に九段となる。昭和18年、関山利仙本因坊からタイトルを奪い、本因坊昭宇と号し、昭和19年に疎開で関西に戻った。昭和25年に本因坊位を持ったまま日本棋院から独立して関西棋院を創設。昭和28年、新設の王座戦に優勝して第1期王座に、昭和37年には初代の十段位も獲得した。生涯に得たタイトルは本因坊、王座各3回、十段、NHK杯争奪トーナメント各2回など。昭和44年に紫綬褒章、昭和52年に勲三等旭日中綬章を受章。昭和60年5月から平成5年4月まで関西棋院の理事長を務めた。
1994年08月04日 林海峰九段、1000勝達成林海峰九段が1000勝を達成した。史上2人目。達成時の年齢は52歳2ヶ月。
1994年08月04日 工藤紀夫九段、700勝達成工藤紀夫九段が700勝を達成した。史上12人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1994年09月04日 森田道博七段、竜星戦初優勝:第4期竜星戦決勝戦で森田道博七段(23)が林海峰九段(52)を下し、初優勝した。
1994年09月08日 藤沢秀行九段、800勝達成藤沢秀行九段が800勝を達成した。史上8人目。69歳2カ月での達成。生涯1505局850勝(0.565)。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1994年11月20日 日本棋院創立70周年を記念してアマ七段を創設:日本棋院創立70周年を記念して、11月19.20日、東京ドーム・プリズムホールで開かれる段位認定大会に七段戦が登場、優勝者に七段が贈呈された。アマ七段は、これまで世界アマ代表など限られた人しか与えられなかった。アマ段位のインフレを助長する愚挙である。
1994年12月08日 柳時熏六段、天元戦初優勝:第20期天元戦柳時熏六段は林海峰九段を3勝1敗で下し、初優勝した。趙治勲(18歳)・石田芳夫(21歳)に次ぎ、林海峰と並ぶ23歳でのビッグタイトル獲得は、年少記録としてベスト3に入る快挙。入段から6年8ヶ月での七大タイトル獲得は史上最短記録。
1995年05月24日 馬暁春九段、中国初の国際棋戦優勝:馬暁春九段は第6回東洋証券杯世界選手権戦決勝5番勝負第4局で中国・聶衛平九段を下し、3勝1敗で優勝した。自身初の世界戦優勝であると同時に、中国初の国際棋戦優勝となった。
1995年07月01日 ニューヨーク囲碁センター開設:岩本薫九段の寄付金をもとに日本棋院はニューヨークに「ニューヨーク囲碁センター」を開設した。(2010年11月30日に閉館となった)
1995年09月14日 中沢彩子三段、女流鶴聖戦初優勝:第17期女流鶴聖戦で中沢彩子三段は小林千寿五段を下し、初優勝した。
1995年12月01日 韓国で囲碁専門チャンネル創設:韓国棋院は囲碁ファンの要望に応えて韓国棋院内に囲碁専門チャンネルを創設した。
1996年03月03日 「囲碁データベース」誕生:日本で第3番目の囲碁サイトとして「囲碁データベース」が開設された。その約1年後に日本棋院のホームページが開設(1997年4月1日)された。
1996年03月06日 西田栄美四段、女流名人戦初優勝:第8期女流名人戦で西田栄美四段(26歳)は加藤朋子四段を下し、初優勝した。
1996年03月24日 羽根直樹五段、新鋭トーナメント戦初優勝:第26期新鋭トーナメント戦で羽根直樹五段(19歳)は三村智保七段を下し、初優勝した。
1996年04月04日 武宮正樹九段、800勝達成武宮正樹九段が800勝を達成した。史上9人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1996年04月11日 趙治勲九段、900勝達成趙治勲九段が900勝を達成した。史上5人目。達成時の年齢は39歳9ヶ月。
1996年04月16日 小林礼子六段、死亡:木谷実の娘で小林光一夫人の小林礼子六段が死亡した。実娘は小林泉美。
1996年05月22日 小林光一九段、900勝達成小林光一九段が900勝を達成した。史上6人目。達成時の年齢は43歳8ヶ月。
1996年05月23日 加藤正夫九段、1000勝達成加藤正夫九段が1000勝を達成した。史上3人目。達成時の年齢は49歳2ヶ月。
1996年06月15日 鳳雛戦、秋山次郎五段優勝:若手の育成を目的に小林礼子六段が創設した第5回鳳雛戦で秋山次郎五段が蘇耀国四段を下し、優勝した。
1996年09月12日 石井邦生九段、700勝達成:石井邦生九段が700勝を達成した。史上13人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1996年10月21日 杉内雅男九段、700勝達成杉内雅男九段が700勝を達成した。史上14人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1996年10月22日 内廼偉九段、日本を離れ米国に:1990年9月に来日したが、日本での公式戦参加の道を閉ざされ続けた内廼偉九段は、来日後に結婚した中国国家チームの先輩・江鋳久九段と米国に向け飛び立った。米国にプロ組織を設立し米国代表として世界選手権に出場するのが目的であった。
1996年11月07日 趙治勲、2度目の大三冠達成:第21期名人戦で趙治勲棋聖(40)が武宮正樹名人(45)を下して名人位を獲得、棋聖、本因坊と合わせ“大三冠”を達成した。趙棋聖は今年3月、第20期棋聖戦で小林覚棋聖とのリターンマッチに挑み、棋聖に復帰。一方で、本因坊戦で8連覇、二冠を保持して今期の名人戦に臨んでいた。趙棋聖の“大三冠”は、名人、本因坊だった1983年、藤沢秀行棋聖(現在名誉棋聖)を下して棋聖になって以来2回目。しかしその時は、同年の本因坊戦で防衛に失敗し、5か月で終わっている。
1996年11月21日 短手数局の新記録:第53期本因坊戦2次予選、工藤紀夫九段対大野伸行六段戦で、黒番の大野伸行六段が20手で投了し、短手数の記録を更新した。これまでの記録は、1994年の王座戦2次予選、本間明男七段対溝上知親四段戦の26手だった。
1997年03月22日 依田紀基九段、JT杯初優勝:第3期JT杯・星座囲碁選手権戦依田紀基九段(碁聖)が柳時熏七段(天元)を下して初優勝した。
1997年04月01日 日本棋院ホームページ開設:日本棋院のホームページが開設された。「囲碁データベース」はその約1年前に開設(1996年3月3日)されていた。
1997年04月21日 結城聡八段、九段に昇段:関西棋院の結城聡八段(27)が大手合で規定の昇段点に達し、九段に昇段した。関西棋院で34人目、日本棋院と合わせて99人目の九段となる。1993年6月に八段になってから3年10か月の昇段で、大手合の成績は17勝1敗4手あき。
1997年05月15日 兪斌九段、中国棋士初のテレビ囲碁アジア選手権戦優勝:第9回テレビ囲碁アジア選手権戦決勝戦で中国・兪斌九段は日本・王立誠九段を下し、初優勝した。中国棋士としては初めての優勝となる。
1997年05月15日 中野寛也八段、九段に昇段:日本棋院中部総本部所属の中野寛也八段(27)が大手合で規定の昇段点に達し、九段に昇段した。到達までの対局数は111局で新記録。過去最短記録は推薦による特例を除いて、趙治勲棋聖の116局。これで日本棋院で66人目、関西棋院(34人)と合わせて100人目の九段になった。日本のプロ棋士約400人のうち四分の一が九段になり、ますます逆ピラミッド型の構成になった。
1997年06月01日 韓国の大学に囲碁学科誕生:韓国の明知大学体育学部に囲碁を学問として研究する囲碁学専攻が創設された。主任教授には韓国棋院の鄭壽鉉九段が就任した。
1997年07月07日 山城宏九段、700勝達成山城宏九段が700勝を達成した。史上15人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1997年07月10日 王立誠九段、700勝達成王立誠九段が700勝を達成した。史上16人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1997年08月27日 応昌期氏死亡:台湾の中国囲棋会会長・応昌期(おう・しょうき)氏が1997年8月27日午前10時30分に大腸ガンのため、台北市の病院で死亡した。享年85歳。台湾の囲碁普及のため「応昌期囲棋教育基金会」を設立し、1984年に世界青少年囲碁大会を創設、1986年には4年に1回開催される「応氏杯世界プロ囲碁選手権戦」を創設し、1990年にはヨーロッパ応氏杯大会と北米応氏杯大会を創設する等、国際化に努めた。
1997年08月28日 中韓囲碁対抗戦、中国が勝利:日中囲碁対抗戦にならって1994年から始まった中韓囲碁対抗戦は8月28日に第4回大会を終了し、中国が韓国に9勝5敗して優勝、通算3勝1敗とした。中韓囲碁対抗戦は1998年、韓国のIMF不況の影響で終了となった。
1997年11月27日 羽根泰正九段、900勝達成羽根泰正九段が900勝を達成した。史上7人目。達成時の年齢は53歳5ヶ月。
1997年12月04日 工藤紀夫九段、反則負け:第23期天元戦第3局で白番の挑戦者・工藤紀夫九段は202手目にコウダテをせずコウを取る反則を犯し反則負けした。1988年10月27日、第36期王座戦挑戦手合5番勝負第1局で武宮正樹九段が同じくコウダテをせずコウを取る反則負けをして以来4度目の出来事。
1997年12月15日 工藤紀夫九段、57歳で天元に:第23期天元戦で挑戦者・工藤紀夫九段(57歳4ヶ月)は天元・柳時熏七段を183手までで黒番中押勝ちで下し、3勝1敗で初めて天元位に就いた。
1998年03月02日 林海峰九段、通算1100勝達成林海峰九段が史上初の通算1100勝を達成した。
1998年03月09日 岩田達明九段、700勝達成岩田達明九段が700勝を達成した。史上17人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1998年03月14日 第4回JT杯星座選手権戦、加藤充志六段が優勝:第4回JT杯星座選手権戦で若獅子・加藤充志六段(23)が趙治勲大三冠を倒し優勝した。
1998年04月04日 囲碁将棋ジャーナル、放送開始:NHK衛星放送第2で土曜日昼に囲碁情報番組「囲碁将棋ジャーナル」が始まった。初代の囲碁の司会者は小山竜吾五段だった。
1998年04月23日 第36期十段戦、彦坂直人九段が初タイトル獲得:第36期十段戦で彦坂直人九段(36歳)が加藤正夫九段を下し、初タイトル獲得
1998年04月23日 高木祥一九段、700勝達成:高木祥一九段が700勝を達成した。史上18人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1998年05月07日 石田芳夫九段、800勝達成石田芳夫九段が800勝を達成した。史上10人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1998年06月25日 工藤紀夫九段、800勝達成工藤紀夫九段が800勝を達成した。史上11人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1998年10月05日 山下敬吾六段、新人王戦初優勝:第23期新人王戦決勝3番勝負第3局で山下敬吾六段(20)は高尾紳路六段(21)を下し、2勝1敗で初優勝した。山下敬吾六段は以降を新人王戦4連覇を果たす。
1998年10月13日 藤沢秀行名誉棋聖、引退藤沢秀行名誉棋聖が引退を表明した。
1998年10月15日 七番勝負史上初の三コウ無勝負趙治勲名人に王立誠九段が挑戦する第23期名人戦挑戦手合第4局(10月14.15日)で七番勝負史上初の三コウ無勝負が生じた。
1998年11月23日 大平修三九段、800勝達成大平修三九段が800勝を達成した。史上12人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
1998年11月28日 小林光一九段、1000勝達成小林光一九段が1000勝を達成した。史上4人目。達成時の年齢は46歳2ヶ月。
1998年12月11日 大平修三九段、死亡大平修三九段が心筋梗塞で死亡した。享年68歳。
1998年12月17日 小林光一九段、12年ぶりに天元にカムバック:第24期天元戦で挑戦者・小林光一九段が天元・工藤紀夫九段を下し、12年ぶりに天元位に就いた。
1998年12月26日 第1回春蘭杯、開幕:中国初の世界戦、第1回春蘭杯・世界選手権戦が開幕。日本から6棋士が参加、依田紀基九段(碁聖・王座)がベスト8進出(北京市「保利大厦」)
1999年02月10日 江鋳久、内廼偉夫婦、韓国棋院に客員棋士に:江鋳久、内廼偉夫婦、韓国棋院に客員棋士として迎えられる。
1999年02月18日 大竹英雄九段、1000勝達成大竹英雄九段が1000勝を達成した。史上5人目。達成時の年齢は56歳9ヶ月。
1999年02月25日 小林覚九段、700勝達成小林覚九段が700勝を達成した。史上19人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1999年02月25日 片岡聡九段、700勝達成片岡聡九段が700勝を達成した。史上20人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1999年03月01日 淡路修三九段、700勝達成:淡路修三九段が700勝を達成した。史上21人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
1999年03月18日 加藤正夫九段、通算1100勝達成加藤正夫九段が林海峰九段に次いで史上2番目となる通算1100勝を達成した。
1999年04月09日 江鋳久九段、内廼偉九段夫婦、韓国棋院客員棋士生活開始:江鋳久九段、内廼偉九段夫婦の韓国棋院客員棋士としての生活が開始された。
1999年04月23日 杉内寿子八段、女流棋士初の勲四等宝冠章受章
1999年05月21日 加納嘉徳九段、死去(享年71歳)
1999年07月19日 碁ワールド創刊:棋道と囲碁クラブが統合され碁ワールドが創刊された。
1999年08月12日 趙治勲九段、1000勝達成趙治勲九段が公式戦通算1000勝を達成した。6人目の快挙である。達成時の年齢は43歳1ヶ月。
1999年08月18日 青木喜久代八段、通算300勝達成:青木喜久代八段が通算300勝達成した。31歳2カ月での通算300勝達成は女流最年少記録である。(その後、2002年8月7日に中沢彩子五段の30歳9カ月に記録を更新される)
1999年08月25日 世界初のインターネット対局中継:韓国棋院(www.baduk.or.kr)はLG精油杯プロ棋戦決勝5番勝負第1局(徐奉洙九段対劉昌赫九段戦)を世界で初めてインターネットで生中継した。当日は5000余人の韓国囲碁ファンが観戦した。
1999年11月01日 「日刊囲碁」創刊:日本初の日刊囲碁新聞がインターネット上に創刊される。
1999年11月24日 藤沢秀行九段、日本棋院を脱退藤沢秀行九段は「棋院を脱退し、独自のアマ免状を発行する」と記者会見。(2003年7月1日に和解復帰)
1999年11月29日 岩本薫九段、死去(享年97歳)岩本薫九段が死去した。(享年97歳)
1999年12月05日 羽根直樹七段、結婚羽根直樹七段(23)が日本棋院中部総本部所属の女流プロ棋士・松岡しげ子初段(26)と結婚した。二人は小さい時からの知り合いとのこと。
1999年12月14日 日本棋院、藤沢秀行九段を除名:日本棋院は、独自免状の発行を企てたとして藤沢秀行九段を除名した。(2003年7月1日に和解復帰)
2000年01月06日 石田章九段、700勝達成:石田章九段が700勝を達成した。史上22人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2000年02月05日 山部俊郎九段、死去(享年73歳)山部俊郎九段が死去した。享年73歳。
2000年02月12日 女流棋聖戦、知念かおり三段が初優勝:囲碁・将棋チャンネル(CATV)で放送されるテレビ棋戦・女流棋聖戦挑戦手合3番勝負第2局(サテライトカルチャージャパンスタジオ)が放映され、挑戦者・知念かおり三段が女流棋聖・小林泉美四段を白番半目勝ちで下し、2勝0敗で初優勝した。
2000年02月21日 内廼偉九段、女性初の国手に:第43期国手戦で挑戦者・内廼偉九段は国手・゙薫鉉九段を下し、初優勝した。女流棋士が国手を獲得したのは初めて。
2000年03月04日 台湾棋院創設:中環集団社長・翁明顕氏が基金を拠出して台湾棋院を創設した。台湾囲碁のプロ職業化に努め、10年以内に国際棋戦で優勝者を出すことを目指す。
2000年04月19日 中国囲碁ペア戦、再開:1998年第3回大会で中断されていた中国囲碁ペア戦の再開が発表された。8組の男女ペアが6月24日から26日まで上海で対戦する。
2000年05月25日 王立誠九段、800勝達成王立誠九段が800勝を達成した。史上13人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2000年06月17日 鳳雛戦、河野臨五段優勝:若手の育成を目的に小林礼子六段が創設した第9回鳳雛戦で河野臨五段が望月研一初段を下し、優勝した。1992年に始まった仁風会・鳳雛戦は9回(2000年)をもって終了した。
2000年07月13日 山城宏九段、800勝達成山城宏九段が800勝を達成した。史上14人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2000年08月31日 依田紀基九段、700勝達成依田紀基九段が700勝を達成した。史上23人目。入段から20年4ヶ月での達成(史上1位)。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2000年12月26日 第3回春蘭杯で不祥事:第3回春蘭杯に出場のため中国に遠征中の小林覚九段が酒席で柳時熏天元の頬をうち負傷させるという不祥事を起こした。
2000年12月31日 小林覚九段、一年間の謹慎処分:日本棋院緊急理事会は、第3回春蘭杯で不祥事を起こした小林覚九段の引退届を受理せず、同九段に2001年12月30日までの一年間の謹慎処分を言い渡した。
2001年03月01日 武宮正樹九段、900勝達成武宮正樹九段が900勝を達成した。史上8人目。達成時の年齢は50歳2ヶ月。
2001年04月05日 張栩六段、史上最年少で本因坊戦挑戦者に張栩六段(21)は第56期挑戦者リーグ戦最終局で挑戦者に決定した。21歳2ヵ月の挑戦は最年少記録。
2001年06月07日 石井邦生九段、800勝達成:石井邦生九段が800勝を達成した。史上15人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2001年06月12日 坂井秀至さん(28)、飛付き五段でプロデビュー:今春に京大医学部を卒業、医師国家試験にも合格したばかりの坂井秀至(ひでゆき)さん(28)の関西棋院へのプロ入りが認められた。その後7、8月に試験碁が行われ飛付き五段が認められた。
2001年06月28日 日中スーパー囲碁戦、終了:日中プロ棋士各8人の団体勝ち抜き戦として1984年10月に始まった日中スーパー囲碁戦が杭州で打たれた第16回で終了した。中国に爆発的な囲碁ブームをもたらした17年の功績は小さくない。
2001年08月31日 小林覚九段、春蘭杯殴打事件、柳時熏天元と和解:2000年12月26日、小林覚九段は春蘭杯の最中に引き起こした柳時熏天元頬殴打事件で柳時熏天元と和解し、日本棋院の機関紙「週刊碁」に8月31日付けで「お詫び」を掲載した。和解を受け、日本棋院は小林覚九段の謹慎期間中の公式戦出場停止処分を9月1日をもって解除した。
2001年10月10日 囲碁アニメ「ヒカルの碁」放送開始:子供たちに爆発的人気の「ヒカルの碁」(少年ジャンプに連載中)のテレビアニメ化が決まった。放送開始は10月10日(水)から。夜7時27分から55分まで、テレビ東京系(テレビ東京、テレビ大阪、テレビ愛知、テレビせとうち、テレビ北海道、TVQ九州放送)で。(2003年3月まで放映)
2001年11月08日 羽根泰正九段、1000勝達成羽根泰正九段(57)が11月8日、日本棋院中部総本部(名古屋)で行なわれた王座戦2次予選で山田至宝六段(33)に勝って、公式戦通算1000勝(486敗5引分け)を達成した。7人目の快挙になる。達成時年齢は57歳4ヶ月。羽根泰正九段は三重県出身。1955年に島村俊廣九段に入門。1958年初段になり、1981年九段。1990年初タイトルの王座を獲得した。中部総本部では1960年10月以前の記録が残っておらず、記録に残っている初白星は1960年11月の本因坊戦1次予選の対田中満生二段戦。以来負け越したのは1991年だけで、ほぼ毎年20勝以上の成績を挙げてきた。
2002年01月11日 梅沢由香里四段が結婚:囲碁界のアイドル・梅沢由香里四段(28)がサッカーJ2川崎フロンターレのゴールキーパー・吉原慎也選手(23)と婚約、1月11日に結婚した。
2002年02月01日 李昌鎬九段、通産1000勝達成:李昌鎬九段は2月1日、中国上海で行われた第3回農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦最終局で中国の主将・周鶴洋九段に勝利し、国内3人目(徐奉洙、゙薫鉉)の1000勝突破を記録した。李昌鎬九段は1986年入段からわずか16年で1000勝を記録したことになり、これは世界最短記録である。
2002年02月21日 ダメ詰め事件王立誠棋聖に柳時熏七段が挑戦した第26期棋聖戦七番勝負第5局は、2月20、21日に行われた。2勝2敗で迎えた第5局は、二日目の終局直前、ダメ詰めを残すのみとなった段階で先番の柳時熏が盤面9目の優勢と目されていた。298手目に王立誠棋聖が6子へのアタリを打ったが、柳は299手目にそれを継がなかったため、王は「僕は終わったとは言ってない」と言って、立ち会い人の石田芳夫九段を呼んだ。石田と主催者読売新聞社が協議し、ビデオも確認して、終局の合意はされていないと認め、王はアタリの6子を抜き、柳はここで投了した。
従来多くの対局で対局者が「終わりですね」と確認しながらダメ詰めが行なわれていたが、日本棋院は棋士アンケートを行い、2006年1月からプロ棋士の終局手順を多数意見だった「ダメ詰め手入れを行なって両者が着手放棄をしたら対局停止とし終局とする」と改めた。

2002年02月14日 富田忠夫名誉九段(瓊韻社)死亡:瓊韻社の富田忠夫名誉九段が心不全で死亡した。享年91歳。平成9年、瓊韻社(けいいんしゃ)名誉九段。昭和16年、雁金準一が瓊韻社創設した直後に雁金準一門下に入り、飛付三段。昭和46年七段。昭和60年八段。平成9年日本棋院より名誉九段を贈られる。昭和38年1月、渡辺昇吉(瓊韻社)と共編で「雁金準一打碁選集」を瓊韻社より刊行、昭和43年12月、「雁金準一名局集」を編集、刊行。門下に王銘宛、黄孟正、郭求真、渋沢真知子ほか。
2002年02月16日 内廼偉九段、興倉杯・世界女流選手権戦優勝:第2期興倉杯・世界女流選手権戦決勝3番勝負で韓国の内廼偉九段は韓国の朴ヤ恩三段を下し、2勝1敗で2連覇した。興倉杯は第2期をもって終了した。
2002年02月28日 小林光一九段、通算1100勝達成小林光一九段が林海峰九段、加藤正夫九段に次いで史上3番目となる通算1100勝を達成した。
2002年03月17日 張栩七段、NHK杯初出場で優勝:第49回NHK杯戦で張栩七段は羽根直樹八段を下し、初優勝した。張栩七段はNHK杯初出場で初優勝。(初出場、初優勝は第15回NHK杯の大竹英雄八段以来2人目)
2002年03月21日 加藤正夫九段、通算1200勝達成加藤正夫九段が史上初の通算1200勝達成を達成した。55歳0カ月で最年少、入段から37年11カ月で最速、勝率6割6分6厘で最高勝率である。
2002年03月28日 片岡聡九段、800勝達成片岡聡九段が800勝を達成した。史上16人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2002年04月04日 趙治勲九段、1100勝達成趙治勲九段が公式戦通算1100勝を達成した。林海峰九段、加藤正夫九段、小林光一九段に続く史上4人目の快挙である。
2002年04月06日 日本棋院ジュニア囲碁教室、毎週開催に:本年4月から小中学校が完全週休二日制になったことから、日本棋院(東京本院)はこれまで月2回土曜日開催だったジュニア囲碁教室を毎週土曜日開催に変更した。最近「ヒカルの碁」ブームで囲碁人気が高まったこともあって小中学生180人が集まった。
2002年04月06日 日本棋院八重洲囲碁センター閉館:東京駅八重洲口わきの国際観光会館五階にある八重洲囲碁センターが47年の歴史に幕を閉じた。再開発の伴う会館建て替えで7月中に近くのビル内で再開。
2002年04月15日 王銘宛九段、700勝達成:王銘宛九段が700勝を達成した。史上24人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2002年04月18日 林海峰九段、通算1200勝達成林海峰九段が通算1200勝達成を達成した。通算1200勝達成は2002年3月21日に達成した加藤正夫九段に次いで史上2人目。林海峰名誉天元は59歳11カ月で、入段から47年0カ月で達成し、達成時の勝率は6割2分9厘。すべて加藤正夫九段にはかなわなかった。
2002年06月06日 彦坂直人九段、700勝達成:彦坂直人九段が700勝を達成した。史上25人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2002年06月27日 宮沢吾朗九段、700勝達成:宮沢吾朗九段が700勝を達成した。史上26人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2002年07月13日 八重洲囲碁センター・オープン:1954年に設立され2002年5月に閉鎖された旧・八重洲囲碁センター(旧国際観光会館5F)に替わり、新・八重洲囲碁センターが2002年7月13日、八重洲口会館9Fに新装オープンされた。
2002年07月25日 羽根直樹八段、九段昇段羽根直樹八段は大手合で下平昭夫六段を白番1目半勝ちで下し、入段から11年3ヶ月(最短記録)で九段に昇段した。九段昇段までの成績は103局(86勝14敗3ジゴ)。
2002年08月03日 李世石、最年少世界戦優勝記録更新第15回富士通杯決勝戦(東京・日本棋院)で韓国・李世石三段(19)は韓国・劉昌赫九段(36)を下し、初優勝した。19歳5ヶ月での優勝は最年少世界戦優勝記録。李世石三段は韓国棋院の規定(世界戦優勝三段昇段)により六段に昇段した。
2002年08月07日 中沢彩子五段、通算300勝達成中沢彩子五段が通算300勝達成した。30歳9カ月での通算300勝達成は女流最年少記録である。(その後、小林泉美六段の27歳6か月に記録を更新される)
2002年10月07日 「コミ」6目半に:日本棋院(利光松男理事長)は10月7日、黒番の「コミ」を従来の5目半から6目半に改定することを決め、各棋戦主催社に申し入れた。
2002年10月31日 趙治勲、勘違いで時間切れ負け:第50期王座戦挑戦手合第2局で秒読みに入っていた趙治勲王座は白番の王銘宛が打ったことに気づかず、相手の手番だと思い込み、記録係が「秒読み」をしているのにもかかわらず打たず、時間切れ負けした。
2002年11月14日 山下敬吾七段、24歳で棋聖戦挑戦者に山下敬吾七段(24)は挑戦者決定戦で柳時熏七段(30)を破り、史上最年少で棋聖戦挑戦者に。
2002年12月16日 岡田結美子五段、女流最強戦初優勝:第22期女流最強戦決勝戦で岡田結美子五段が梅沢由香里五段を下し、初優勝した。
2003年01月16日 ハンス・ピーチ六段、死亡:ドイツ出身のハンス・ピーチ六段(34)、中米グアテマラで囲碁普及活動中、強盗に撃たれて死亡
2003年01月16日 淡路修三九段、800勝達成:淡路修三九段が800勝を達成した。史上17人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2003年01月17日 中国NEC杯、王磊八段が初優勝:中国NEC杯・早碁戦決勝戦(北京)は王磊八段が周鶴洋九段を黒番1目半勝ちで下し、初優勝した。
2003年01月20日 日本棋院、大手合廃止:日本棋院(利光松男理事長)は1月20日、2003年度から大手合廃止、新昇段基準制定すると発表した。大手合(おおてあい)は75年の歴史に幕を下ろした。
2003年02月20日 日本棋院、棋戦予選制度を改革:日本棋院(利光松男理事長)は2月20日、各棋戦の予選制度を改革すると発表した。
2003年02月27日 山下敬吾七段、最年少で棋聖に山下敬吾七段(24)は第27期棋聖戦挑戦手合7番勝負第5局で棋聖・王立誠九段を破り、4勝1敗で初の棋聖位を獲得した。24歳での棋聖位獲得は最年少記録。
2003年04月01日 日本棋院、新昇段制度開始:日本棋院は4月1日から大手合を廃止し、新昇段制度を開始した。新昇段制度は、公式棋戦である12棋戦(棋聖戦、名人戦、本因坊戦、十段戦、天元戦、王座戦、碁聖戦、富士通杯、トヨタ&デンソー杯、竜星戦、阿含桐山杯、新人王戦)の成績を対象に昇段を決めるもので、「タイトル獲得等による昇段」「勝ち星による昇段」「賞金ランキングによる昇段」が三本柱となる。
2003年04月01日 山下敬吾七段、九段に昇段:新昇段基準に基づき、棋聖を獲得した山下敬吾七段は九段に昇段した。24歳6ヶ月の九段昇段は日本第2位の最年少昇段記録(第1位は橋本昌二九段の23歳7ヶ月)
2003年04月01日 柳時熏七段、九段に昇段:新昇段基準に基づき、天元位通算4期の実績の柳時熏七段は九段に昇段した。
2003年04月01日 張栩七段、八段に昇段:新昇段基準に基づき、56期本因坊戦挑戦者となった張栩七段は八段に昇段した。
2003年05月19日 張栩八段、400勝達成張栩八段が5月19日の対局で通算400勝を達成した。通算成績は400勝121敗2分け。達成時の年齢は23歳3ヶ月29日で、最も若い山下敬吾九段の23歳3ヶ月21日にわずかに及ばなかったが、約9年の超スピードで400勝を達成した。ちなみに400勝は新昇段制度で入段から七段に昇段するまでの累積勝利数に該当する。
2003年06月29日 初のインターネット公式対局:第6回BCカード杯韓中新人王戦は初めてインターネット対局で行われた。
2003年07月01日 藤沢秀行九段、日本棋院に復帰藤沢秀行九段「独自免状の発行は行わない」と確約
2003年07月07日 李世石六段、韓国最年少で九段昇段:韓国の李世石六段は第16回富士通杯世界囲碁選手権決勝戦で韓国の宋泰坤四段を白番中押勝ちで下し、2年連続で優勝し、同時に韓国棋院の規定(世界戦優勝三段昇段)により九段に昇段した。20歳4ヶ月5日での九段昇段は韓国の最年少記録。(2004年7月5日に朴永訓に更新される)
2003年07月11日 張栩八段、本因坊獲得で九段昇段:入段から9年3ヶ月(23歳5ヶ月)で本因坊位を獲得した張栩八段は、新昇段規定により同日付で九段に昇段した。現役110人目の九段となる。23歳5ヶ月の九段昇段は日本の最年少昇段記録(従来の最年少記録は橋本昌二九段の23歳7ヶ月)
2003年07月24日 高尾八段、通算500勝達成高尾紳路八段(26)が7月24日、東京・日本棋院で行われた小松英樹九段との名人戦二次予選で白番中押し勝ちし、公式戦通算500勝を達成した。500勝達成時の勝率7割5分8厘は史上1位。
2003年08月13日 矢代久美子五段、通算200勝達成:矢代久美子五段が8月13日、東京・日本棋院で行われた本因坊戦予選Cで、金艶三段を黒番半目勝ちで下し、公式戦通算200勝を達成した。日本棋院の女性棋士では18人目で、27歳0カ月での達成は女性棋士史上3位タイの年少記録。
2003年09月07日 中国・周鶴洋九段、テレビ囲碁アジア選手権戦初優勝:第15回テレビ囲碁アジア選手権戦決勝戦で中国・周鶴洋九段は日本・三村智保九段を下し、初優勝した。中国棋士としては兪斌九段(1997年)に続き2人目の優勝となる。
2003年10月02日 小県真樹九段、通算600勝達成:小県真樹九段(39)が10月2日に通算600勝を達成した。史上36人目の600勝到達。小県真樹九段は1980年入段。負け数は280敗。ちなみに600勝は新昇段制度で入段から八段に昇段するまでの累積勝利数550勝を上回る。
2003年10月06日 小松英樹九段、通算600勝達成:小松英樹九段(36)が10月6日に通算600勝を達成した。史上37人目の600勝到達。小松英樹九段は1981年入段。負け数は284敗。ちなみに600勝は新昇段制度で入段から八段に昇段するまでの累積勝利数550勝を上回る。
2003年10月30日 王立誠九段、通算900勝達成王立誠九段(44)が10月30日、本因坊戦リーグ戦で依田紀基九段を下し、通算900勝(448敗)を達成した。史上9人目。44歳11ヶ月での達成は趙治勲九段、小林光一九段に次いで3番目の早さ。入段から31年6ヶ月の達成は趙治勲九段、小林光一九段、加藤正夫九段に次いで第4位のスピード記録となる。
2003年10月30日 高木祥一九段、通算800勝達成:高木祥一九段(59)が10月30日の十段戦予選Aで楊嘉源九段に白番中押勝ちし、公式戦通算800勝(453敗)を達成した。史上18人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2003年12月04日 張栩九段、王座戦初優勝:第51期王座戦挑戦手合5番勝負第4局で挑戦者・張栩九段が王座・王銘宛九段を下し、3勝1敗で王座戦で初優勝した。
2003年12月07日 山下敬吾九段、結婚山下敬吾九段(棋聖)(25)が高梨聖健八段の妹・聖子さん(23)と東京のホテルで結婚式を挙げた。聖子さんはスカイパーフェクトTV!の竜星戦の司会者。
2003年12月18日 小林覚九段、通算800勝達成小林覚九段が通算800勝を達成した。史上19人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2004年01月12日 張栩本因坊と小林泉美女流本因坊、結婚張栩本因坊と小林泉美女流本因坊・女流名人の結婚式が1月12日(月)、沖縄県のリゾート地で行われた。双方の家族が列席。当初は今春に挙式予定だったが、タイトル戦など2人の対局日程のためにこの時期になった。
2004年02月19日 石田芳夫九段、通算900勝達成石田芳夫九段(55)が2月19日、棋聖戦最終予選で林子淵六段を下し、通算900勝(533敗)を達成した。史上10人目。
2004年03月11日 山下敬吾九段、通算500勝達成山下敬吾九段は3月11日、棋聖戦7番勝負第6局で山下敬吾棋聖は羽根直樹九段に勝ち、史上66人目の通算500勝を達成した。25歳6ヶ月での500勝達成は史上最年少、入段から10年11ヶ月での達成は史上最速となる。500勝達成時の勝率も7割6分3厘で第1位。ちなみに500勝は新昇段制度で入段から七段に昇段するまでの累積勝利数400勝を上回る。
2004年04月01日 謝依旻初段、女流最年少入段:謝依旻初段は14歳5ヶ月で入段。女流最年少入段記録を更新した。また台湾出身の女流棋士としては潘坤ト初段に続いて2人目。
2004年04月23日 高尾紳路八段、結婚:高尾紳路八段が4月23日に慶応大学囲碁部出身の村上奈都子さんと結婚した。これで平成四天王(羽根直樹山下敬吾張栩)が全員結婚した。
2004年04月29日 山城宏九段、通算900勝達成山城宏九段(45)は4月29日、日本棋院中部総本部(名古屋市)で行われた第60期本因坊戦最終予選で倉橋正行九段(31)に白番5目半勝ちし、公式戦通算900勝目を挙げた。史上11人目。山城九段の通算成績は900勝437敗(7ジゴ)で、勝率6割7分3厘。900勝達成時点の勝率としては趙治勲25世本因坊(6割8分1厘)、小林光一九段(6割7分8厘)に次ぐ史上3位となる。また45歳8カ月での達成は趙治勲25世本因坊(39歳9カ月)、小林光一九段(43歳8カ月)、王立誠九段(44歳11カ月)に次ぐ史上4位の年少記録。入段から32年0カ月での達成は趙治勲25世本因坊(28年0カ月)、小林光一九段(29年1カ月)、加藤正夫九段(29年5カ月)、王立誠九段(31年6カ月)に次ぐ史上5位のスピード記録となった。
2004年05月02日 古力七段、招商銀行杯優勝:中国のテレビ棋戦・第3回招商銀行杯で古力七段が兪斌九段を下し、初優勝した。招商銀行杯はCCTV杯の後継棋戦。
2004年05月17日 工藤紀夫九段、通算900勝達成工藤紀夫九段(63)は5月17日、東京・市ヶ谷の日本棋院本院で行われた第14期竜星戦予選Bで渡辺礼二五段(68)に黒番中押し勝ちし、公式戦通算900勝目を挙げた。史上12人目。工藤九段の通算成績は900勝532敗(4ジゴ)で、勝率6割2分8厘。900勝達成時点の勝率としては12人中10番目にあたる。工藤九段は63歳9カ月での900勝達成は坂田栄男23世本因坊の63歳8カ月をわずかながら上回り、歴代最年長記録。入段から49年1カ月での達成も同じく坂田栄男23世本因坊の48年6カ月を越え、史上1位のスロー記録となった。
2004年06月08日 加藤正夫九段、日本棋院理事長に:利光松男理事長の辞任に伴い加藤正夫九段が理事長に就任した
2004年07月05日 朴永訓六段、韓国最年少で九段昇段:韓国の朴永訓六段は第17回富士通杯世界囲碁選手権決勝戦で日本の依田紀基九段を黒番1目半勝ちで下し、初優勝し、同時に韓国棋院の規定(世界戦優勝三段昇段)により九段に昇段した。19歳3ヶ月4日での九段昇段は韓国の最年少記録。
2004年07月22日 大竹英雄九段、通算1100勝達成大竹英雄名誉碁聖(62)は7月22日、東京・市ヶ谷の日本棋院本院で行われた第60期本因坊戦最終予選で大場惇也二段(20)に黒番中押し勝ちし、公式戦通算1100勝を達成した。通算1100勝を達成したのは史上5人目。通算成績は1100勝664敗(5持碁1無勝負)で、勝率6割2分4厘。62歳2カ月での1100勝達成は林海峰名誉天元の55歳9カ月を上回り、歴代最年長記録(最年少記録は趙治勲25世本因坊の45歳9カ月)。入段から48年3カ月での達成も同じく林海峰名誉天元の42年11カ月を越え、史上1位のスロー記録となった(スピード記録は趙治勲25世本因坊の34年0カ月)。通算勝数第1位は林海峰名誉天元の1252勝。大竹名誉碁聖は1碁聖7期、十段5期、名人3期、王座1期など通算タイトル獲得数は46。
2004年08月21日 依田紀基九段、通算800勝達成依田紀基九段(名人・碁聖)は8月21日、トヨタ&デンソー杯1回戦で江鳴久(ミン・ジー・ジャン)七段(米国)に勝ち、史上20人目の公式戦通算800勝(366敗2ジゴ)を記録した。20人目。入段から24年4ヶ月での達成は、趙治勲九段の25年0ヶ月を上回る史上最速。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2004年09月18日 趙善津九段、結婚:趙善津九段(34)が9月18日、東京目白のフォーシーズンズホテル椿山荘で新婦・鄭麻美さんと結婚式を挙げた。
2004年09月10日 王座戦、持ち時間短縮へ王座戦の対局者の持ち時間が各3時間に短縮されることになった。国際棋戦で一般化している持ち時間3時間制を国内棋戦としていち早く導入し、「世界に通用する棋士が勝つ棋戦」との位置付けを明確にする。現在、囲碁王座戦の持ち時間は本戦トーナメントが4時間、五番勝負が5時間。対局環境の急変を避けるため3年がかりで移行し、2005年度(53期)から予選を3時間に、2006年度(54期)から本戦トーナメントを3時間に、2007年度(第55期)から五番勝負を3時間にする。
2004年09月23日 岩田達明九段、通算800勝達成岩田達明九段(78)は9月23日、第44期十段戦関西・中部予選Bで円田秀樹九段(38)に白番半目勝ちし、公式戦通算800勝目を挙げた。史上21人目。78歳8カ月での800勝達成は藤沢秀行名誉碁聖の69歳2カ月を大幅に上回る歴代最年長記録となった。入段後の初勝利は1946年10月2日、大手合の梶和為初段戦。通算成績は800勝534敗(9持碁)で、勝率6割。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2004年09月27日 滝口政季八段、九段昇段:関西棋院の滝口政季八段は9月27日、大手合で前田亮六段に白番中押勝ちし、昇段点に達し九段に昇段した。滝口政季八段は現役110人目の九段となる。
2004年10月04日 山田規三生八段、通算600勝達成:山田規三生八段が10月4日の富士通杯予選Aで武井孝志六段を黒番中押勝ちで下し、600勝を達成した。38人目。15年6ヶ月での600勝達成は依田紀基九段の17年3ヶ月を抜いて史上最速。勝率0.733は史上最高となる。ちなみに600勝は新昇段制度で入段から八段に昇段するまでの累積勝利数550勝を上回る。
2004年10月11日 週刊碁、関西棋院の手合成績、掲載開始:「週刊碁」2004年10月11日号から従来の日本棋院の手合成績に加え、関西棋院の手合成績も掲載されるようになった。
2004年10月12日 日本棋院、ネット対局サービス開始:日本棋院は韓国棋院の子会社「世界サイバー棋院」と提携してインターネット対局サービス「幽玄の間」を開始した。
2004年11月15日 日本棋院、囲碁殿堂資料館設立:日本棋院は創立80周年記念事業の一つとして、囲碁殿堂資料館を日本棋院内に開設した。第1回囲碁殿堂入りは徳川家康ら4人。有識者、棋士、マスコミ関係者ら18人からなる囲碁殿堂表彰委員会が、事前にノミネートされた10人の候補(第1回は江戸時代に限定)から選出。今回の殿堂入りは、碁打衆を保護し御城碁の基盤を築いた徳川家康、第一世本因坊で近世囲碁史の開祖である本因坊算砂、近世囲碁の基盤を確立し“碁聖”とたたえられた本因坊道策、道策同様“碁聖”と称され近代布石の基礎を築いた本因坊秀策の4人。
2004年11月04日 張栩九段、史上5人目の名人本因坊に張栩九段(24)は第29期名人戦で依田紀基九段を破り、坂田栄男九段、林海峰九段、石田芳夫九段、趙治勲九段に続く5人目の名人本因坊になった。
2004年11月17日 羽根直樹九段、王冠位3連覇:第44期王冠戦挑戦手合1番勝負で羽根直樹九段は山城宏九段を下し、王冠位を防衛した。3連覇となる。
2004年12月02日 杉内雅男九段、史上最年長で800勝達成杉内雅男九段(84)が12月2日、東京・八重洲の日本棋院八重洲囲碁センターで行われた第31期名人戦(朝日新聞社主催)予選Cで趙祥衍五段(63)に白番中押し勝ちし、公式戦通算800勝目を挙げた。通算800勝は史上22人目。84歳1カ月での達成は岩田達明九段(78)の78歳8カ月を抜いて歴代最年長記録となる。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2004年12月30日 加藤正夫九段、死去:攻めの碁で数々のビッグタイトルを獲得した囲碁棋士で、財団法人日本棋院理事長加藤正夫さんが12月30日午後0時33分、脳こうそくのため、入院先の都内の病院で亡くなった。57歳。棋院改革を推し進めている途上だった。福岡県出身。木谷実九段門下。1964年入段、1978年九段。1976年第1期碁聖戦で大竹英雄名人を下し、初タイトル。1977年第32期本因坊となり、剣正を名乗った。1979年、本因坊、十段、天元、王座、鶴聖の5冠。1986年第11期名人。1987年には名人、十段、王座、碁聖の4冠となり、加藤時代を築いた。「殺し屋」と呼ばれた力強い碁風が持ち味。通算で名人2期、本因坊4期、十段6期、王座11期など、タイトル獲得数は歴代5位の47にのぼる。通算成績は1253勝664敗2ジゴ。2002年7月、赤字が続くなどした日本棋院の改革を訴えて副理事長に就任。その後も公務の傍ら、50代として初めて本因坊(第57期)となるなど碁でもトップとして活躍した。2004年6月、利光松男前理事長の辞任により理事長に就任。財政赤字の改善、大手合の廃止、予選・昇段制度の改革などに取り組んだが、12月7日に脳梗塞で入院、12月30日の午後0時33分に57歳で死去した。
2005年01月01日 関西棋院、大手合廃止:関西棋院は2004年10月をもって大手合を廃止し、2005年1月より新しい昇段制度を開始した。関西棋院の新昇段制度は、公式棋戦である12棋戦(棋聖戦、名人戦、本因坊戦、十段戦、天元戦、王座戦、碁聖戦、富士通杯、トヨタ&デンソー杯、三星火災杯、関西第1位戦、新人王戦)の成績を対象に昇段を決めるもので、「タイトル獲得等による昇段」「勝ち星による昇段」「賞金ランキングによる昇段」が三本柱となる。新昇段制度は2005年1月1日より開始された。日本棋院は2003年4月から新昇段制度を実施している。
2005年01月13日 小林泉美六段、通算300勝達成:小林泉美六段(女流名人)が1月13日、東京都千代田区の日本棋院で行われた第30期新人王戦本戦で久保田大二段に白番中押し勝ちし、公式戦通算300勝(191敗)を達成した。通算300勝達成は女流棋士史上11人目。27歳6カ月は史上最年少、勝率6割1分1厘は史上最高、入段から9年9カ月は史上最速という記録ずくめの快挙となった。これまでの最年少記録は中沢彩子五段の30歳9カ月。また、9年9カ月での達成も最速で、300勝時の勝率6割1分1厘も史上1位となった。
2005年01月13日 加藤朋子五段、通算300勝達成:加藤朋子五段(35)が1月13日、東京・市ヶ谷の日本棋院本院で行われた第61期本因坊戦(毎日新聞社主催)予選Bで安藤和繁初段(21)に白番2目半勝ちし、公式戦通算300勝目を挙げた。通算300勝は同日わずかに早く達成した小林泉美女流名人(27)に続き女流棋士史上12人目となる。35歳11カ月での達成は小林女流名人の27歳6カ月、中沢彩子五段の30歳9カ月(2002年8月7日達成)、青木八段の31歳2カ月に次いで歴代4位。通算300勝243敗(3持碁)で達成時勝率5割5分2厘は小林女流名人の6割1分1厘、青木八段の5割9分1厘、中沢五段の5割6分5厘に次いで同じく歴代4位の好成績だ。
2005年01月27日 趙治勲九段、通算1200勝達成趙治勲25世本因坊(48)は1月27日、東京・市ヶ谷の日本棋院本院で行われた第30期碁聖戦(新聞囲碁連盟主催)本戦トーナメント2回戦で山下敬吾天元(26)に黒番中押勝ちし、公式戦通算1200勝目を挙げた。趙治勲25世本因坊は1999年8月12日に通算1000勝目、2002年4月4日に同1100勝目を挙げ、この日、1200勝に達した。通算成績は1200勝616敗3持碁4無勝負。勝率(6割6分1厘)こそ加藤正夫名誉王座にわずかに及ばなかったものの、最年少、最速両部門の記録を3年ぶりに塗り替えた。
2005年01月26日 中野泰宏八段、九段昇段:関西棋院の中野泰宏八段は1月26日、王座戦関西棋院高段一次予選で張呂祥六段を黒番中押勝ちで下し、昇段規定の経過措置により九段に昇段した。中野泰宏八段は関西棋院で現役35人目、日本棋院と合わせて現役110人目の九段となる。
2005年04月20日 張栩九段、日本代表最年少で世界戦優勝張栩九段は第9回LG杯世界棋王戦で中国・兪斌九段を3勝1敗で下し、優勝した。25歳3ヶ月での世界戦優勝は日本最年少記録。日本代表棋士史上8人目の世界戦優勝。
2005年04月27日 趙治勲九段、十段位獲得趙治勲九段は第43期十段戦王立誠十段を3勝2敗で下し、史上最多タイトル獲得数68に更新した。
2005年05月11日 川村和憲八段、九段昇段:関西棋院所属の川村和憲八段が5月11日、八段昇段後200勝を挙げて九段へ昇段した。兵庫県出身の51歳、1971年6月入段 1986年7月八段。関西棋院の現役で36人目、日本棋院と合わせて現役109人目の九段となる。
2005年05月12日 時本壱八段、九段昇段:日本棋院所属の時本壱八段が5月12日の王座戦予選Cで小林健二七段に勝ち、八段昇段後200勝を挙げて九段へ昇段した。沖縄県出身の57歳、1968年入段、1985年八段。門下に知念かおり女流本因坊・女流棋聖。日本棋院の現役九段は74人。日本棋院と合わせて現役110人目の九段となる。
2005年06月13日 青木喜久代八段、通算400勝達成:青木喜久代八段が6月13日、東京都千代田区の日本棋院で行われた第15期竜星戦予選で三王裕孝九段に勝ち、女流棋士史上最年少となる37歳0カ月で公式戦通算400勝(309敗4持碁)を達成した。400勝は同史上6人目。これまでの最年少記録は小川誠子六段の48歳0カ月。入段から19年2カ月での達成は女流棋士最速で、400勝時の勝率5割6分4厘も同史上1位となった。
2005年06月29日 高尾紳路八段、本因坊獲得で九段昇段:高尾紳路八段は6月29日、本因坊戦挑戦手合7番勝負第5局で張栩九段を黒番半目勝ちで下し、三大タイトル獲得により九段に昇段した。高尾紳路八段は日本棋院で現役74人目、日本棋院と合わせて現役110人目の九段となる。
2005年07月09日 張栩九段、通算500勝達成張栩九段が通算500勝達成した。史上73人目。史上最年少25歳5ヶ月で達成。
2005年09月01日 小林光一九段、通算1200勝達成小林光一九段が9月1日の棋聖戦予選、江面雄一八段戦に白番中押し勝ちし、通算1200勝(598敗2持碁)を達成した。故加藤正夫名誉王座、林海峰名誉天元、趙治勲十段に次いで史上4人目。達成時の勝率は6割6分7厘で、加藤の6割6分6厘を抜いて史上1位。入段から38年4カ月での1200勝達成は趙治勲九段の36年9カ月、加藤正夫九段の37年11カ月に次ぐ第3位(林海峰九段は47年0ヶ月で達成)。52歳11カ月での快挙。
2005年10月06日 王銘宛九段、通算800勝達成:王銘宛九段が通算800勝を達成した。史上23人目。ちなみに800勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を上回る。
2005年10月08日 井山裕太四段、史上最年少優勝:第12期阿含桐山杯全日本早碁オープン戦でプロ4年目の井山裕太四段(16)が小林覚九段(46)に272手まで黒番6目半勝ちして初優勝した。井山四段は一般棋戦初優勝で、規定により七段に昇段する。一気に三段昇段するのは初めて。また、16歳4カ月での棋戦優勝は1973年に趙治勲五段(当時)が新鋭トーナメント戦で優勝した17歳0カ月を抜く最年少記録になった。全棋士参加の棋戦優勝は、1975年に趙治勲六段(当時)がプロ十傑戦で優勝した18歳10カ月を抜く新記録で、記録ずくめの優勝になった。
2005年10月20日 矢代久美子五段、初タイトル獲得:10月20日、第24期女流本因坊戦(共同通信社主催)5番勝負第3局で矢代久美子五段(29)が知念かおり女流本因坊(女流棋聖)(31)を242手で白番中押勝ちで下し、3勝0敗で初タイトルを獲得した。
2005年10月27日 黄翊祖、最年少で名人リーグ入り:10月27日名人戦最終予選でを下し、名人戦リーグ入りを決めた。18歳6ヶ月での名人戦リーグ入りは史上最年少リーグ入り記録。
2005年12月20日 河野臨七段、天元位獲得で八段昇段:第31期天元戦山下敬吾天元を下し、史上13人目の天元となった。河野臨七段は七大タイトルで初タイトル獲得。規定により八段に昇段した。
2006年01月13日 山田規三生八段、九段昇段:山田規三生八段は1月12日に行われた本因坊戦リーグ戦で蘇耀国八段を黒番中押勝ちで下し、八段昇段後勝ち数が200勝となり、1月13日付けで九段に昇段した。初段入段から16年9カ月での最高位到達。山田規三生九段は日本棋院所属棋士では現役74人目の九段、関西棋院所属の九段(35人)と合わせると109人目(現役)の九段となる。
2006年01月19日 高尾紳路九段、通算600勝達成:高尾紳路本因坊は1月19日、大阪市の関西総本部で行われた名人戦リーグ戦で山田規三生九段に勝ち、通算成績600勝を達成した。史上41人目となる。29歳2カ月での達成は、これまでの趙治勲十段の30歳2カ月を抜く史上最年少記録。入段から14年9カ月での達成は山田規三生九段の15年6カ月を抜く史上最短達成記録となった。ちなみに600勝は新昇段制度で入段から八段に昇段するまでの累積勝利数550勝を上回る。
2006年01月26日 柳時熏九段、通算600勝達成柳時熏九段が通算成績600勝を達成した。史上42人目となる。ちなみに600勝は新昇段制度で入段から八段に昇段するまでの累積勝利数550勝を上回る。
2006年01月30日 羽根直樹九段、通算600勝達成羽根直樹九段が通算成績600勝を達成した。史上43人目となる。ちなみに600勝は新昇段制度で入段から八段に昇段するまでの累積勝利数550勝を上回る。
2006年02月09日 武宮正樹九段、1000勝達成武宮正樹九段(55)が公式戦通算1000勝を達成した。史上8人目の快挙になる。達成時年齢は55歳1ヶ月。
2006年02月24日 農心杯、日本初優勝:第7回農心杯最終局で日本・依田紀基九段は韓国・李昌鎬九段を破り、依田の3連勝で幕を閉じた。日本は農心杯で初優勝した。
2006年03月13日 中野泰宏九段、大ポカで敗れる:第54回NHK杯第1回戦で黒番の中野泰宏九段は盤面で10目以上黒が良い局面でダメヅマリに自ら突っ込み黒5子を捕られ、投了した。相手は石田芳夫九段。
2006年03月19日 羽根直樹九段、NHK杯初優勝:第53回NHK杯決勝で羽根直樹九段が今村俊也九段を黒番中押勝ちで下し、初優勝した。中部総本部の棋士としては第1回の島村利博八段(当時)以来、52年振りの優勝となる。
2006年04月13日 趙治勲九段、タイトル獲得数69に更新:第44期十段戦で十段・趙治勲九段は挑戦者・山下敬吾九段を3勝1敗で下し、タイトル獲得数は69に更新した。
2006年04月21日 中国・古力七段、九段昇段:10期LG杯で中国・古力七段(23)は中国・陳耀Y五段を下して初優勝し、九段昇段を決めた。中国囲碁協会で25人目の九段。
2006年05月03日 第5回CSK杯アジア囲碁対抗戦、中国が優勝:日本のシステム会社・CSKが主催する日本、中国、韓国、台湾の4チームによる対抗戦。2002年に創設された。第5回CSK杯アジア囲碁対抗戦は中国が優勝し、第5回で終了した。
2006年05月16日 韓国棋院、大韓体育会の準加盟競技団体に:2002年1月、(財)韓国棋院が大韓体育会の認定団体としての承認を受けて始まった囲碁のスポーツ化は2005年創立の囲碁協会がバトンを受け継ぎ、2006年5月16日大韓体育会の準加盟競技団体となった。
2006年06月09日 結城聡九段、入籍:結城聡九段は関西棋院の堀田陽三九段のご令嬢・可菜子さんと入籍した。
2006年07月02日 韓国棋院創始者・趙南哲、逝去:韓国囲碁界の元老で、韓国棋院創始者の趙南哲は7月2日に病気で逝去した。享年83歳。
2006年07月06日 石田章九段、800勝達成:石田章九段(57)が、東京・市ヶ谷・日本棋院で行なわれた第13期阿含桐山杯本戦1回戦で楊嘉源九段に白番4目半勝ちし、入段後40年3ヶ月で公式戦通算800勝(441敗)を達成した。史上24人目。
2006年08月03日 山下敬吾九段、通算600勝達成山下敬吾九段が通算成績600勝を達成した。史上47人目となる。ちなみに600勝は新昇段制度で入段から八段に昇段するまでの累積勝利数550勝を上回る。
2006年09月25日 中国個人戦、王檄九段優勝:中国の正式な国家体育競技戦=中国個人戦で王檄九段が優勝した。中国個人戦は男女別に開催され、男子はスイス方式で11局打ち順位を決める。最も伝統があり、若手の登竜門的な棋戦である。
2006年10月19日 林海峰九段、1300勝達成:棋聖戦予選で、林海峰名誉天元が安斎伸彰三段に勝ち、史上初の通算1300勝を達成した。達成時の成績は1300勝793敗1持碁2無勝負。中国・上海出身で1952年に来日。1955年に12歳で入段。現在64歳5カ月で、入段から51年6カ月で1300勝到達を達成した。通算勝利第2位は故・加藤正夫名誉王座の1254勝。主なタイトルは名人8期、本因坊、天元各5期などで、通算タイトル獲得数は35。門下に張栩名人・王座・碁聖がいる。
2006年11月03日 高尾紳路九段、史上6人目の名人本因坊に:高尾紳路九段(30)は第31期名人戦で張栩九段を破り、坂田栄男九段、林海峰九段、石田芳夫九段、趙治勲九段、張栩九段に続く6人目の名人本因坊になった。
2006年12月21日 小林覚九段、900勝達成小林覚九段が900勝を達成した。13人目となる。
2006年12月25日 謝依旻三段、女流最年少優勝:女流最強戦決勝戦で謝依旻三段(17)が小西和子八段を256手まで白番中押勝ちで下し、初優勝した。17歳1ヶ月での優勝は女流最年少記録。
2007年03月01日 彦坂直人九段、800勝達成:彦坂直人九段(44)が、大阪府・日本棋院関西総本部でおこなわれた第32期名人戦リーグ戦で山田規三生九段に白番中押勝ちし、入段後30年11ヶ月で公式戦通算800勝(425敗3持碁1無勝負)を達成した。史上25人目。
2007年04月20日 片岡聡九段、900勝達成片岡聡九段が900勝を達成した。14人目となる。
2007年06月02日 依田紀基九段、900勝達成依田紀基九段が900勝を達成した。15人目となる。
2007年06月02日 石井邦生九段、900勝達成:石井邦生九段が900勝を達成した。16人目となる。
2007年06月14日 陳耀Y五段、世界最年少で九段に陳耀Y五段は2006年4月のLG杯戦準優勝に続いてテレビ囲碁アジア選手権戦で準優勝して、中国の昇段規定により九段(27人目)に昇段した。17歳5ヶ月28日での九段昇段は世界最年少記録。
2007年06月27日 山田規三生九段、700勝達成:山田規三生九段が700勝を達成した。史上29人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2007年08月09日 張栩九段、碁聖戦初防衛:第32期碁聖戦挑戦手合5番勝負第3局で碁聖・張栩九段(27)は挑戦者・横田茂昭九段(38)を3勝0敗で破り初防衛した。
2007年08月30日 張栩九段、通算600勝達成張栩九段が通算成績600勝を達成した。史上49人目となる。ちなみに600勝は新昇段制度で入段から八段に昇段するまでの累積勝利数550勝を上回る。
2007年12月10日 李世石九段、国手戦初優勝:国際棋戦で何度も優勝している韓国の李世石九段が韓国の伝統棋戦・第51期国手戦で初優勝した。
2008年02月14日 王立誠九段、1000勝達成王立誠九段(49)が2月14日、東京都・日本棋院市ヶ谷本院で行われた第64期本因坊戦予選Aで井口豊秀七段に黒番中押し勝ちし、公式戦通算1000勝(543敗1持碁1無勝負)を達成した。史上9人目の快挙になる。49歳3ヶ月での達成となり史上4位の年少記録(1位は趙治勲十段の43歳1ヶ月)、入段から35年10ヶ月での達成となり史上4位(1位は趙治勲十段の31年4ヶ月)、達成時勝率 .648 となり史上5位(1位は小林光一九段の .679)。初勝利は1972年(昭和47年)4月19日の大手合で児玉幸子二段に黒番中押し勝ち。
2008年02月21日 農心杯、中国初優勝:第9回農心杯第13局(最終局前)で中国・常昊九段は韓国・朴永訓九段を破り、常昊の4連勝で幕を閉じた。中国は農心杯で初優勝した。
2008年02月29日 周俊勲九段、台湾棋院離脱を表明:周俊勲九段をはじめとする12人の台湾棋士が台湾棋院が求めた同意書への署名を拒否して台湾棋院を離脱した。(2009年9月30日、全員復帰した)
2008年03月31日 小県真樹九段、700勝達成:小県真樹九段が700勝を達成した。史上30人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2008年06月04日 李世石九段、テレビ囲碁アジア選手権戦2連覇:第20回テレビ囲碁アジア選手権戦決勝戦で韓国の李世石九段が韓国の趙漢乗九段を下し、2連覇を達成した。
2008年06月05日 小川誠子六段、通算500勝達成:小川誠子六段が6月5日、千代田区・日本棋院市ヶ谷本院で行われた第34期棋聖戦予選Cで三谷哲也五段に黒番2目半勝ちし、公式戦通算500勝(511敗9持碁)を達成しました。入段から38年2ヶ月での達成で、杉内寿子八段に次いで女流史上2人目の通算500勝となりました。
2008年07月07日 小松英樹九段、700勝達成:小松英樹九段が700勝を達成した。史上31人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2008年07月28日 三星火災杯国際予選、史上最多319人参加:第13回三星火災杯世界囲碁オープン国際予選が7月28日から8月2日まで韓国棋院予選対局場で開かれ、韓国196人、中国51人、日本47人、台湾19人、アマチュア6人の計319人が出場した。参加者数は史上最多。
2008年08月15日 張栩、碁聖3連覇:第33期碁聖戦で張栩九段は山下敬吾九段を3勝1敗で下し、3連覇を達成した。
2008年11月02日 三谷哲也五段、広島アルミ杯若鯉戦優勝:2006年9月に創設された日本棋院の若手棋士対象の非公式棋戦。日本棋院所属の30歳以下、五段以下の棋士55人の中から、予選を勝ち抜いた15人と、推薦出場で広島市在住の山本賢太郎四段(25)の計16人によるトーナメント戦。第3期広島アルミ杯若鯉戦は三谷哲也五段が安斎伸彰五段を下して優勝した。
2008年10月03日 第1回頭脳オリンピック開催:北京オリンピック後の行事として国際知力運動連盟(IMSA)が主催する第1回頭脳オリンピックが10月3日〜18日に北京で開幕式が行われた。100個以上の国家・地区から約3000名選手が出場し、囲碁は約60個の国家・地区から約600名の選手が出場した。
2009年01月08日 結城聡九段、900勝達成:結城聡九段が900勝を達成した。
2009年02月04日 韓国棋院、大韓体育会の正式加盟団体に:2002年1月、(財)韓国棋院が大韓体育会の認定団体としての承認を受けて始まった囲碁のスポーツ化は2005年創立の囲碁協会がバトンを受け継ぎ、2006年5月16日大韓体育会の準加盟競技団体となった。2009年2月4日、大韓体育会の第25回理事会で、(社)囲碁協会が正式加盟団体として承認された。(社)囲碁協会が大韓体育会の55番目の正式加盟競技となり、2001年から行なわれた囲碁界の努力は約9年ぶりに実を結んだ。
2009年03月05日 高尾紳路九段、700勝達成:高尾紳路九段が700勝を達成した。史上32人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2009年03月16日 古霊益五段、西南戦3連覇:第8期西南戦決勝戦で古霊益五段は古力九段を下し、3連覇を達成した。
2009年03月19日 羽根直樹九段、700勝達成:羽根直樹九段が700勝を達成した。史上33人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2009年05月04日 古力九段、世界戦5冠王に:第1回BCカード杯世界囲碁選手権で中国の古力九段は韓国の趙漢乗九段を3勝1敗で下し、初優勝。これで古力九段はLG杯、トヨタ&デンソー杯、富士通杯、春蘭杯、BCカード杯の世界戦5冠王になった。
2009年05月08日 藤沢秀行名誉棋聖、死亡:重厚な棋風で棋聖戦6連覇を果たし、破天荒な生き方で「無頼派」として知られた囲碁棋士の藤沢秀行(ふじさわ・ひでゆき、本名・保=たもつ)さんが5月8日午前7時16分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都内の病院で死去した。83歳。葬儀は近親者だけで行い、お別れ会を後日開く。喪主は妻モトさんと長男秀樹(ひでき)さん。
2009年05月28日 宮沢吾朗九段、800勝達成:宮沢吾朗九段(59)が、市ヶ谷・日本棋院で行われた第36期天元戦予選Bで安藤和繁四段に黒番9目半勝ちし、入段後43年1ヶ月で公式戦通算800勝(524敗6持碁)を達成した。史上26人目。
2009年06月08日 李世石九段、休業宣言:韓国囲碁リーグの不参加を表明し、中国囲碁甲級リーグに参加していることから批判を浴びている李世石九段が韓国棋院に休職届を出した。6月8日午後2時10分頃李世石九段の実兄の李相勲(イ・サンフン)七段が韓国棋院ハン・サンヨル事務総長に面談して休職届を提出した。休職期間は2009年6月30日から2010年12月31日まで18ヶ月間で2011年1月に復職することになる。
2009年07月09日 淡路修三九段、900勝達成:淡路修三九段が900勝を達成した。17人目となる。
2009年09月14日 公式戦史上2度目の長生無勝負:9月14日に行われた世界選手権富士通杯予選Bの王銘宛九段―内田修平三段の対局で「長生」(ちょうせい)が発生し無勝負となった。公式棋戦での「長生」無勝負は1993年9月23日の本因坊リーグ 林海峰天元―小松英樹八段戦以来2回目。
2009年09月25日 井山裕太八段、竜星戦初優勝:第18期竜星戦決勝戦で井山裕太八段(20)が張栩九段(29)を下し、初優勝した。20歳での優勝は竜星戦最年少優勝記録。
2009年09月30日 周俊勲九段ら、台湾棋院に復帰:2008年2月29日、台湾棋院が求めた同意書への署名を拒否して台湾棋院を離脱した周俊勲九段をはじめとする12人の台湾棋士は台湾棋院に復帰した。
2009年10月01日 河野臨九段、通算500勝達成河野臨九段が10月1日、東京・市ヶ谷の日本棋院で行われた第34期棋聖戦リーグ戦で二十五世本因坊治勲に白番半目勝ちして棋聖リーグ残留を決めるとともに、公式戦通算500勝(188敗1持碁1無勝負)を達成した。史上88人目の500勝達成となる。
2009年10月15日 井山裕太八段、20歳で名人獲得:第34期名人戦七番勝負第5局で挑戦者・井山裕太八段(20)は名人・張栩九段(29)に176手まで白番中押勝ちし、通算4勝1敗で名人位を奪取した。20歳での名人位獲得は史上最年少記録。七大タイトルの中でも最年少獲得記録となる。井山八段は同時に九段昇段も決めた。
2009年10月22日 山下敬吾九段、700勝達成:山下敬吾九段が700勝を達成した。史上35人目。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2009年11月28日 梶原武雄九段、死亡:梶原武雄さん86歳(かじわら・たけお=囲碁棋士)が11月28日午後8時14分、急性腎不全のため東京都中央区の病院で死去。新潟・佐渡島出身。1937年にプロ入り(初段)。終戦後、各棋戦で活躍し、藤沢秀行、山部俊郎(ともに故人)と並んで「戦後三羽ガラス」と呼ばれた。1965年、九段。本因坊戦リーグ入り3回、名人戦リーグ入り7回。解説会などでの歯切れのいい弁舌は「梶原節」と呼ばれ、研究会を開いて若手棋士を育てた。2000年、引退。「梶原流革命定石」など著書多数。
2009年12月02日 橋本昌二九段、死亡橋本昌二さん74歳(はしもと・しょうじ=囲碁棋士)が12月2日、心筋梗塞(こうそく)のため死去した。昭和22年に入段。師匠は橋本国三郎七段。昭和25年の関西棋院独立時から橋本宇太郎九段とともにエースとして活躍し、入段から11年のスピードで九段に昇段した。49年には坂田栄男九段を破り第12期十段位に就いたほか、王座戦2回、NHK杯3回の優勝経験がある。名人戦リーグにも10期在籍。深い読みの力戦型、長考派で気迫あふれる棋風から「重戦車」の異名を取った。通算成績は1037勝631敗。2009年11月11日まで対局していた。平成6年から10年までは関西棋院の理事長を務め、囲碁の普及に尽力、あわせて後進の育成にあたった。
2009年12月17日 張栩、通算700勝達成:張栩九段が700勝(254敗2持碁1無勝負)を達成した。史上36人目。史上最年少・史上最短・史上最高勝率となる。ちなみに700勝は新昇段制度で入段から九段に昇段するまでの累積勝利数750勝を下回る。
2010年01月11日 李世石九段、復帰李世石九段が2009年6月30日から2010年12月31日までの約6カ月の休職を終え、2011年1月に正式に復帰した。李九段は1月11日、兄のイ・サンフン七段とともに韓国棋院を訪れ、所属棋士の内部規定遵守、中国リーグでの収入の一部を棋士会に納付すること、棋譜著作権の棋士会への委任に同意する文書に署名した。李九段はその後、韓相烈(ハン・サンヨル)事務総長、チェ・ギュビョン棋士会長と1時間ほど対話した。韓国棋院は1月8日に開かれた常任理事会で、本人が直接出向いて署名するという条件で、李九段の復職を承認した。李九段は、昨年6月26日に休職届を出し12月17日の復職届の提出したが、その手続きは兄のイ・サンフン七段を通じて行っていた。李九段は1月16日から開催される第2回BCカード杯64強戦が復帰戦となる見通しだ。
2010年02月25日 王銘宛九段、900勝達成:王銘宛九段が900勝を達成した。18人目となる。
2010年02月28日 張栩九段、グランドスラム達成:第34期棋聖戦張栩九段が山下敬吾棋聖を降し、グランドスラム(棋聖・名人・本因坊・十段・天元・王座・碁聖の挑戦手合制七大公式タイトル)を達成した。趙治勲に続き史上2人目の達成。
2010年04月01日 全日本囲碁連合、設立:中国・広州で2010年11月開催される第16回アジア競技大会に、囲碁が初めて正式種目として採用され、日本棋院など国内囲碁組織は3月9日までに、大会参加団体として「全日本囲碁連合」を設立することで合意した。3月中にも日本オリンピック委員会(JOC)に承認申請する。日本オリンピック委員会(JOC)は3月11日の加盟団体審査委員会で、全日本囲碁連合、日本クリケット協会、日本ローラースポーツ連盟の3団体を新たに承認団体として認める方針を固めた。囲碁、クリケット、ローラースケートの3種目は11月に中国・広州で開催されるアジア大会で新種目に採用された。大会参加のためにはJOCの加盟団体か承認団体となる必要がある。(2011年3月31日開催)
2010年05月20日 石田芳夫九段、1000勝達成:石田芳夫九段が5月20日、東京・日本棋院で行われた第59期王座戦予選Bで三王裕孝九段に黒番半目勝ちし、公式戦通算1000勝(604敗)を達成した。史上11人目の達成。コンピューターと呼ばれる緻密な棋風はいまも健在。節目の勝利もピッタリ半目勝ちで飾った。
2010年06月29日 山下敬吾九段、初の本因坊に:第65期本因坊戦挑戦手合7番勝負第5局(秩父市)が行われ、挑戦者・山下敬吾九段(31)が本因坊・羽根直樹九段(33)を4勝1敗で下し、初の本因坊になった。8月20日の就位式で「本因坊道吾(どうわ)」の号が披露された。
2010年08月27日 坂井秀至七段(37)、碁聖獲得:8月27日、日本棋院で行われた第35期碁聖戦挑戦手合5番勝負第5局で、挑戦者・坂井秀至七段(37)が碁聖・張栩九段(30)を281手白番2目半勝ちで下し、3勝2敗で初優勝した。張栩九段(30)の碁聖5連覇はならなかった。関西棋院の坂井秀至七段(37)は7大棋戦で初タイトルを獲得。37歳での7大棋戦獲得、28歳で入段した棋士の7大棋戦獲得、大卒棋士での7大棋戦獲得はいずれも史上初めて。また関西棋院の棋士としては29年前の橋本昌二王座以来、29年ぶりの7大タイトル獲得となる。
2010年10月22日 坂田栄男、死去:本因坊戦7連覇や7タイトル同時制覇など、数々の記録を打ち立てた囲碁棋士の坂田栄男(さかた・えいお)さんが10月22日、死去した。90歳。1920年、東京都生まれ。29年、増淵辰子八段に入門した。35年にプロ入り(初段)。51年、日本棋院最高段者トーナメント戦を制し、初優勝。55年、九段。61年、高川秀格本因坊(当時)の10連覇を阻止して新本因坊となった。同年、7タイトル制覇を達成した。64年にも名人・本因坊など、再び7タイトルを制覇。年間30勝2敗、公式戦29連勝という大記録を打ち立てた。67年まで本因坊戦7連覇。二十三世本因坊の資格を持ち、坂田栄寿の号を名乗っている。「カミソリ坂田」「シノギの坂田」と呼ばれる切れ味鋭い棋風で相手を圧倒。65年名人位を、68年に本因坊位を失うが、その後も十段、王座などのタイトルを獲得、トップ棋士として息長く活躍した。78年から86年まで、日本棋院理事長を務めた。92年、文化功労者。00年、体力の衰えを理由に引退した。通算成績は1117勝654敗16ジゴ(日本棋院調べ)、タイトル獲得・優勝回数は64回(歴代2位)。著書は「坂田一代 勝負師の系譜」「坂田の碁」など。
2010年10月25日 李昌鎬、結婚:韓国の李昌鎬九段(35)が囲碁記者出身のイドユン(24)さんとで結婚式を挙げた。
2010年11月05日 村川大介五段 最年少で関西棋院第一位に:第54期関西棋院第一位決定戦3番勝負第2局で挑戦者・村川大介五段(19)が杯者・結城聡九段(38)を250手まで黒番半目勝ちで下し、2勝0敗で関西棋院第一位のタイトルを獲得した。19歳での関西棋院第一位獲得は最年少。村川五段は規定により七段に昇段する。
2010年11月16日 結城聡九段(38)、天元獲得:11月16日、佐賀県唐津市で行われた第36期碁聖戦挑戦手合5番勝負第3局で、挑戦者・結城聡九段(38)が天元・山下敬吾九段(32)を252手黒番2目半勝ちで下し、3勝0敗のストレートで初優勝した。関西棋院の結城聡九段(38)は7大棋戦で初タイトルを獲得。09、10年にNHK杯で連続優勝するなど、力戦派の実力者として知られていた。7大タイトルへの挑戦は今回が6回目だった。また今年8月に碁聖位を獲得した坂井秀至八段(37)に続き関西棋院2人目の7大タイトル保持者となる。
2010年11月26日 アジアオリンピックで囲碁が正式種目に:中国・広州で開催された第16回アジア大会で囲碁が「スポーツ」として、初めて大会の正式競技に採用された。日本からは山下敬吾らトップクラスの棋士計10人が参加。団体男子(11月23日−26日)、団体女子(11月23日−26日)、混合ダブルス(11月20日−22日)の3種目で金メダルを目指した。日本は団体男子は銅メダル、団体女子は第4位、混合ダブルスは第9位に終わった。
2010年11月30日 ニューヨーク囲碁センター閉館:岩本薫九段の寄付金をもとに1995年7月1日にニューヨークに開設された「ニューヨーク囲碁センター」は日本棋院が賃料を払えないという理由で2010年11月30日に閉鎖となった。
2011年03月11日 東日本大震災で女流名人戦が打ちかけに:女流名人戦第2局の最中に東日本大震災が発生し、女流名人戦が打ちかけになった。女流名人戦の打ちかけは初めて。
2011年03月28日 日本棋院、公益財団法人に:財団法人・日本棋院(大竹英雄理事長)は3月28日、公益財団法人への移行が内閣府に認められたと発表した。
2011年04月01日 全日本囲碁連合が解散:全日本囲碁連合は4月7日、3月末で解散したと発表した。2010年11月のアジア大会(中国・広州)に日本代表選手を派遣して設立当初の目的を達成したためとのこと。同連合は広州アジア大会で初採用された囲碁に選手を送るため、日本棋院、関西棋院、日本ペア碁協会の3団体を統括して2010年4月1日に設立された。
2011年08月14日 富士通杯、韓国・朴延桓九段(18)、史上最年少で初優勝:8月14日、第24回富士通杯世界囲碁選手権戦決勝戦が行われ、韓国・朴延桓九段(18)が中国・邱峻八段(28)を下し、史上最年少で初優勝した。日本の井山裕太九段(22)は第3位だった。