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バランスの悪い「名勝負師」はいない
【2017年9月14日 日経BizGate】

現場に揉まれてこそ磨かれる「勘」
 『戦争論』で有名なクラウゼヴィッツは戦争の複雑さを「シンプルな本質⇔摩擦」という二項対立から読み解こうとした。彼はそこから、「摩擦」を取り除く独特の才能、つまり軍事的な「天才」の必要性を指摘した。現代風にいえば、アナログ的な勝負勘、ともいうべき資質をどう磨いていけばよいか。古今の勝負師たちの箴言(しんげん)を紐解いてみよう。

 まず、「勘」や「判断力」の精度をあげる前提を各種の戦略書に求めると、

 「そのジャンルでの長い修練」
 「幅広い教養」

という、やや矛盾した2つの要素が必要になることで、古今東西、共通する面がある。

 前者では、将棋の羽生善治棋士にこんな指摘がある。

 「将棋は、ある時期にどれだけ将棋を指したかがすごく大きな要素になるんですね。この局面での最善手はこれだ、と盤面を見てパッと思い浮かぶのを第一感というんですが、つまり直感ですね、その大雑把に感じをつかむ訓練は10代前半ぐらいにしておかないと、後になってどんなに頑張っても身につけるのが難しいような気はします(『簡単に、単純に考える』羽生善治 PHP文庫)」

 ある時期に、大量の経験を積むことが、後々の「勘」の母体になるという指摘だ。似たようなことは、ビジネスにもあって、2000年頃にソニーが不調に陥った理由の1つとしてこんな指摘がなされている。

 「1980年頃までは盛田が新製品発売の権限を持ち、部下に人の生活をじっくり観察させていた。もっと大勢に、もっと安く、もっと便利に使ってもらい、世の中をあっと言わせる商品は、市場調査のデータからは絶対に出ないからだ。だがその後、ソニーは盛田が外れ、マーケティング部門にMBA(経営学修士)出身の人材を投入。そんな変化が、観察力や直感力を薄れさせたのではないか (『日経ビジネス』2007.2.5 『イノベーションのジレンマ』などで有名なクレイトン・M.クリステンセンの指摘)」

 盛田昭夫にあって、MBAの人材になかったもの。それは長い現場の経験から身につけた「アナログ」的な勘や直感に他ならない。直感を磨くのに必要なことは、現場のど真ん中で、ひたすら揉まれ、考え、感じること。いくら優秀な人材がデジタル的な知識を詰め込み、ケーススタディを学び、現場の人に何人も取材したとしても、身にならない面が残るのだ。

 さらに、マーケティング・マネジメントを唱え、義理チョコなどの開発で知られている株式会社タッグの大谷隆行氏は、筆者の取材にこう述べている。

 「商品開発やマーケティングの勘を磨くには、現場で経験を積むことが第一、長く揉まれているとひらめくようになるんです。中小企業の社長は、現場で揉まれてナンボですから、こうした勘が働く人は結構いますよ。それが大企業にない中小企業の強みでもあるんです」

 大手と比較した中小企業の経営者の強みとは、現場経験の継続にあり、そこからアナログ的な感性が育まれていくというのだ。

 実は、筆者自身も書店に10年勤めた経験があって「この本は売れそうだ」という勘は確かに働くことがあった。1つのジャンルのスペシャリストであれば多かれ少なかれ、こうした経験はあるのではないだろうか。

 しかし、これだけでは積めないものが「バランス」という要素になる。

『孫子』と『戦争論』が共に説くバランス感
 まず『孫子』と『戦争論』には、このバランスという観点に関して、次のような指摘が述べられている。

 「智者は、必ず利益と損失の両面から物事を考える。すなわち、利益を考えるときには、損失の面も考慮にいれる。そうすれば物事は順調に発展する。逆に、損失をこうむったときには、それによって受ける利益の面も考慮にいれる。そうすれば、無用な心配をしないですむ。

 ──智者の慮(りょ)は必ず利害に雑(まじ)う。利に雑えて、而して務(つと)め信(の)ぶべきなり。害に雑えて、而して患い解くべきなり。(九変篇)」

 「軍事的天才は調和のとれた諸資質を有している。この場合、ある資質が他よりも抜きん出ている事は差し支えないが、ある資質が他の働きを妨げるような事があってはならない。(『戦争論』第1篇第3章)」


 『孫子』には、将軍の器量に関するバランスの指摘も別掲のようにあるが、チャンスと見れば行け行けになり、ピンチと見れば怖気づいてしまうような人物では勝利は覚束ない、という点で両書は一致しているのだ。

 さらに、筆者の取材したなかで、同様の指摘をしていたのが、一般の弁護士が関わる100年分の離婚案件を手がけた経験を持ち、『男と女の法律戦略』『離婚裁判』といった著作を世に問うている荘司雅彦氏だ。氏に「腕利きの弁護士の条件」を尋ねたとき、こんな答えが返ってきた。

 「まず、他人の立場にたって、ものが見られることですね。それとバランスの良さ。全体の流れを見ながら、自分の側の条件をどこで出していくのか、といった判断をするためには、バランスの良さが欠かせません」

 また、大手金融機関で数百億円前後の資金を運用しているトレーダーに対し、「勝てるトレーダーの条件」を尋ねたとき、真っ先に返ってきた答えがこれだった。

 「成功するトレーダーと話をすると、『あ、この人バランスが良い人だな』と必ず感じますね。ある視点に偏った感じがしないんです」

 結局、「バランスの良さ」「バランス感覚」といった要素がないと、自分自身やその直面する問題を、一面的かつ、主観的にしか見られなくなってしまいがちになる。状況の変化が激しかったり、裏をかこうとしたりするライバルがいる場合、1つの立場や一面的な視点に固執することは失敗の元凶にしかならない。

 常に、自分のとっている立場は間違いではないか、前提が誤っていないか、違う見方はできないのかを問い返す能力が、そこでは必要になってくる。

 この点で、『戦争論』には、「天才」が登場する前提として、こんなユニークな指摘がある。

 「軍事的天才の高さは、その国民の全体的な精神的発展に依存する。未開な国民の中には真に偉大な将軍は一人もいないし、ましてや軍事的天才と呼び得る最高の将軍は皆無である(『戦争論 レクラム版』第1編第3章)」


 この指摘が、どこまで当を得ているか定かではないが、「文化的な教養を幅広く持っているか否か」という観点として捉えると、かなり良い線をついた言葉になる。古今東西の勝負師たちは「バランス感覚」「多面的なものの見方」を養うために、ジャンルを横断した教養を身につけようとしてきたのだ。教養とは、新たな視点、異なる立場の宝庫に他ならない。

 たとえば、日本の剣豪、宮本武蔵。彼は、

 「武士は文武二道といって、文と武の二つの道をたしなむことが大切である(『五輪書』宮本武蔵 鎌田茂雄訳注 講談社学術文庫)」

と『五輪書』に記したように、現在でも高い評価を受ける書画作品や、他にも詩歌、茶、工芸に没頭、腕を磨いていった。

 また、先ほどの将棋の羽生名人にもこんな指摘がある。《平尾さん》とあるのは、神戸製鋼でラグビー日本選手権7連覇を達成した平尾誠二氏のことだ。

 「勘を磨くためには盤上で考えるのではなく、たとえばラグビーを見に行くとか、音楽を聴くとか、こうやって平尾さんと話すとか、別に将棋に関係なくてもいいんです。そういう経験が積み重なって感性が磨かれていくんじゃないかと思います(『簡単に、単純に考える』羽生善治 PHP文庫)」

 結局、アナログな感性を身につける基本としては、まず、「実践や現場に長く揉まれる経験を持って、勘の母体とすること」。これは職人が、技術の習得のために長年修練を積むのとまったく同じ理屈だ。

 さらに、「幅広い教養を学んで、多面的な視点やバランスの良さを身につけること」が必須になってくる。もちろんこの2つを兼ね備えることは、容易ではない。しかし、その困難を乗り越えた者こそ、各ジャンルで「名人」や「達人」と呼ばれていくわけだ。

諦念を持つことの意味
 では、この2つの前提の上で、さらに「勘」や「判断力」を研ぎ澄ますコツのようなものはないだろうか。

 やはり筆者の取材した有識者のなかで、日本政府の情報収集機関である内閣情報調査室の室長を長らくつとめた大森義夫氏が──他の本や指摘と照らし合わせても──非常に納得のいく指摘を述べている。

 「情報をとったり、そこから正確な判断を下すために心がけているのは、まず気持ちの余裕。焦りが出ると、物事を正しく見ることができなくなります。それと、できないことはできないとする、良い意味でのニヒリズムや、諦観、一種の開き直りのようなものも必要ですね。つまり、自分を客観視するということ。私は、もう1人の自分が自分を見ているという感覚を持つようにしています」

 「余裕」「良い意味でのニヒリズム」「諦観」「客観視」という言葉に共通するのは、いかに自分の眼を曇らせないようにするかの観点。己の主観や欲望、恐怖心、過信、焦り、プレッシャーといったものが、いざというときの判断を狂わせる大きな要因になってくるのだ。これはまさに、

 「戦争においては、情意はあらゆる強烈な圧力を受け、またすべての知識や見識は不確実なので、人々を当初の軌道から逸脱させ、その人自体及び他人を困惑させるような機会が、他の人間活動の場合よりもずっと頻繁に起こりがちである(『戦争論 レクラム版』第1編第3章)」

というクラウゼヴィッツの指摘と重なり合ってくる。強烈なプレッシャーをはね除け、自分の眼を常にニュートラルに保てるものこそ、勝者となり得るのだ。

 さらに、細目を見ていくと、まず「諦念」に通じてくるのが、囲碁界における近代以降の最大の天才とも呼ばれる呉清源(ごせいげん)氏の言葉だ。呉氏は、当時の最強棋士たちと十番勝負を戦い、そのすべてに勝利する偉業を成し遂げたのだが、そのときをこう回想している。

 「十番打って、その勝負がどちらになろうが構わなかった。勝とうと思って勝てるものでもないのが碁の世界である。だから私は、この十番碁を打つときにはじめから考えていたことは、碁そのものの成り行きにまかせていよう、その流れに自分の体を横たえて、たとえどこへ運んで行かれようが、そのまま流れて行こうという気持ちであった(『呉清源』江崎誠致 新潮社)」

 こうした心境が、勝負を見る眼にどんな影響を及ぼしたのか。それは、状況判断の確かさなのだ。囲碁では、混沌とした局面が続くと、自分が勝っているのか負けているのか非常に判断しにくくなり、トップ・プロといえど往々にして間違える状況となる。

 そこで、状況を楽観的に捉え過ぎると、「負けとわかってから首をひねっても、もう遅いのだ。(『五人の棋士』三好徹 講談社)」という結果になり、悲観的に捉え過ぎると、「必要以上に攻めかかる。ために、かえって相手につけこまれ、せっかく勝っている碁を負けにしてしまうのだ。(『五人の棋士』三好徹 講談社)」と、いずれも敗北の元凶になる。

 ところが呉清源氏の場合、「この状況判断が抜群にすぐれていた。足りないとみれば相手に喰下がり、勝っているとみれば、戦いをさけてさっさと収束する。専門語でいうと、明るい碁だった。(『五人の棋士』三好徹 講談社)」と、その判断を間違えないことが強さの源になっていた。

 1対1での勝負事では、「勝っているときは単純に、負けているときは複雑に」という黄金律がある。もちろん囲碁でもまったく同じなのだが、プロでもしばしば間違えるくらい彼我の優劣の見極めが難しいゲームのため、正しい状況判断さえ冷静にできれば、勝率は格段に上がっていく。

 呉氏の澄み切った碁に対する心境は、まさにこの難所を超える大きな武器になっていたのだ。
守屋 淳著 『孫子・戦略・クラウゼヴィッツ』(日本経済新聞出版社)から
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