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棋士の勝負めし 「将棋のほうが囲碁より食べる」と観戦記者
【2017年6月28日 朝日新聞】

将棋の藤井聡太四段が対局時に注文する、うどんやラーメンなどの「勝負めし」が注目されている。テレビのワイドショーで紹介されたり、すぐ売り切れになったりと話題に事欠かない。じつは将棋だけでなく囲碁の世界でも、長丁場の対局になるため食事やおやつは欠かせない。これまで名局名勝負を間近で見てきた囲碁観戦記者の内藤由起子さんが、囲碁界の「勝負めし」にまつわるエピソードを明かす。

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囲碁棋士は勝負のときに何を食べているのか──。タイトル戦の対局情報がインターネットで逐一流される現代において、勝敗や途中経過とともに、アクセス数が多いのが「勝負めし」の記事だ。今ではお昼ご飯とおやつは、カメラマンが撮影し、速報としてインターネットに記事を必ずあげるほど人気のコンテンツになっている。20年ほど前、記者が新米のころはそれほど食事について注目されていなかったと思うが、個人的にはおおいに興味があった。記者の初めての挑戦手合観戦は、第22期名人戦第4局(1997年10月15、16日)。兵庫県・有馬温泉「御所坊」で打たれた、趙治勲名人VS小林光一挑戦者戦だった。挑戦手合のときは、対局者それぞれに仲居さんがひとりづつ担当する。その仲居さんに、対局者が何を食べたのか、どれくらい食べたのか、残したのかを取材しに行ったものだった。それで体調や心理状態が少しでも垣間見られると思ったからだ。趙治勲名誉名人は、朝ご飯を食べると、昼は抜く。朝を抜けば昼は食べるというリズムだと知ったのも、そのときだ。山下敬吾九段などは、手合のときは昼ご飯は食べないことで有名だ。若い頃、食べて失敗してからやめているという。対局中はチョコレートなどを口にしてエネルギーを補っている。そんな少食の棋士たちを見てきたためか、昨今、将棋の棋士の食事内容、麺類とご飯のセットやとんかつ定食などが報道されているのを見ると、「囲碁棋士に比べてよく食べるな〜」というのが率直な感想だ。ふだんの日本棋院での対局では、以前は、お茶などの世話をする職員が、朝、対局が始まるとお昼ご飯の注文を聞きに来たので、メニューが丸分かりだった(現在は出前ができないので、注文もない)。たいていの棋士、加藤正夫名誉王座や片岡聡九段らも、ざるそばなどの麺類で軽いものを選んでいた。そんな中で、カツ丼や親子丼などをオーダーしていたのが、小林光一名誉三冠だった。ほかにも大平修三九段はよく鰻を食べていたのは有名な話だ。これらが特筆されるほど、どんぶりものなど比較的重たいものを注文する棋士は少なかった。名人戦など挑戦手合のときは、前日にメニューのアンケートが両対局者に手渡され、お昼やおやつで食べたいものに印をつける方式が多くなってきた。名人戦の定宿、「あたみ石亭(神奈川県・熱海市)」や「鬼の栖(静岡県・修善寺)」、「わかつき別邸(静岡県伊東市/現在閉館)」などは、ふつうに宿泊しても、お昼ご飯は提供していない。板さん特製の手打ちそばやデザートなどは、番碁ならではの楽しみでもある。「陣屋(神奈川県・鶴巻温泉)」は将棋の棋戦でもよくつかう宿で、お昼はカレーライスが定番。通常メニューにはないもので、タイトル戦のときにだけふるまわれる裏メニューだ。チキンとビーフが用意され、好みで選べ、合掛けにすることもできる。女将が「将棋の羽生善治さんは先日、チキンを選ばれました」などと紹介しながら配膳される。井山裕太六冠は、お寿司や海鮮丼などが好み。挑戦手合は全国の温泉地などで催されるので、海鮮が名物のところも多い。麺類か寿司を注文することが多く、井山さんがカレーや松花堂弁当などを選ぶのはごく稀だ。井山さんが19歳で初めて名人に挑戦した第33期第1局(2008年9月4、5日、青森市・ホテル青森)、手合の前夜。記者は主催紙の仕事で井山さんをエスコートしつつ、ふたりで食事をしたことがある。井山さんが刺身などを注文するのを見て、少し驚いた。これまで食事をしてきた棋士らは、重要な対局前は生ものを控えたり、油っこい料理など重いものは避けていたからだ。それを井山さんにたずねると、「全然、気にしません」とモリモリ食べていた。次の日、打ち掛けの晩はフランス料理のフルコースを、デザートを少し残しただけでほぼ完食。緊張してもおかしくない状況で、しっかり食べられるとは、これは大物だと感じたものだった。第39期名人戦第3局(2014年9月25、26日)は札幌市の「第一寶亭留 翠山亭倶楽部定山渓」で打たれた。そこで井山名人は、お昼に天ぷらそばを注文。その天ぷらのエビがすごかった。宿のサービスでボタンエビが3匹も乗っている豪華版だったのだ。われわれ記者やスタッフはふつう(?)の天ぷらそばだったので、対局終了後、井山さんに「ボタンエビの天ぷら、どうでしたか?」とわざわざ聞いてみた。すると「天ぷら、残しちゃったんですよね」という返事。ああ、そのエビ、スタッフにまわしてくれれば……とみなで嘆いた。2016年、井山七冠から名人を奪った高尾紳路名人は、対局前日に鉄板焼きのフルコースを完食するなど、決して小食ではない。高尾さんが注文したお昼ご飯、そばやうどんなどが写真でアップされているが、実は対局中の昼はほとんど食べていないと告白してくれた。高尾さんは「ファンのみなさんがネット記事を楽しみにしているので、何か頼んだほうがいいかと……」。一方、名人戦第29期の挑戦者・河野臨九段は棋士の中では珍しくよく食べることで有名だ。第6局(2014年10月29、30日)は長野県の「上諏訪温泉 油屋旅館」。この旅館は初めての番碁開催だった。河野さんはおやつに長野名物・リンゴの盛り合わせを頼んだ。時間になり、仲居さんがおやつを運んでくると、なんと「右がシナノゴールド、左が紅玉……」と、リンゴの説明を始めたのだ。対局室の静寂の中、対局者と記録係以外の声が響いたのは、前代未聞。さらにその仲居さん、リンゴが載ったお盆を河野さんの前を通過させながら、河野さんの左手側から右手側に置いたのだ。多分、対局者と盤面の間に、物体が通り過ぎたのは、囲碁史上初のことだったろう。目の当たりにした記録係(本木克弥八段)と記者は、凍り付いた。でも、対局者はおちついたものだった。ひと昔前のとっても偉い棋士だったら、どんなことになっていたか。考えただけでもそら恐ろしい。井山さん、河野さんでありがたかったと、思わずにはいられない場面だった。対局時の棋士の心理状態を知るうえでも興味深い「勝負めし」。これからも数々の名勝負や人間ドラマとともに語り継がれていくことだろう。
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